この中学校から鶴ヶ城に向かって三百メートル先にかつての「西郷頼母」邸があり、碑が立っています。そこの脇の細い路地を挟んだ隣りが我が家でした。先の裁判所の東側の西郷頼母邸内ということになります。

           

                  諏訪地方 小野酒造 日本酒「頼母鶴」

 

戦後(昭和21年)、満洲国からの引揚者として、板切れの上に遺骨箱をのせるようにして、混んだ列車のなかで圧死などされないようにと乳児を載せて、父母は故郷会津へと戻ました。母は一人乳母車を引きながら行商を始めて、ようやく母方の祖父母の支援も受けて手にした「土地」でした。一反歩(千平方メートル)はあったでしょうが、5歳児の頃の自分に残っている印象は、平屋建てのお化け長屋と、そのはるか向こうにあった小さくて暗い外便所という、モノクロームの黒沢映画でしか味わえないような異様な風景です。

 今にして思えば、ここは戊辰戦争時、西郷頼母の家族21名が自刃したその場所であり、戦後になるまであえて誰も近寄らなかったところであり、そこを不遜にも住居にしようなどとは誰も思わなかったのではないでしょうか。

 小学校も中学校も、家からはほぼ300メートルの距離にあって、それより近い「お城」はまさに大きな遊園地でした。もちろん天守閣などはまだありません。石垣をよじ登ったりお堀で鯉を釣り上げてみたり、雷魚を家に持ち帰って叱られてはみたり、鐘撞(かねつき)堂の下の坂道は小学校のスキー場にもなったりしていました。大八車に負けない荷ゾリを引き出して、10人ぐらいが乗って滑り降りたこともありました。その意味では、少年雑誌の漫画に出てくる主人公たちになることができていた毎日だったのかもしれません。

 父方の祖母は「祝町」に母方の祖母は猪苗代町におり、後年父方の祖母だけが同居しましたが、既に高校を卒業し上京していた当時の自分には実家の変化についてはあまり詳しくないのです。

 この「祝町」は、蒲生氏氏郷時代から「穢多町」と呼ばれていた町名でしたが、嘉四郎がこのように改称したと、母からは聞かされていました。それには祖父嘉一郎の「事件」が影響していたのかもしれません。

 

        

               昭和60年頃に上海で購入した方位磁石 

 

 しかし<穢多>は、今も差別用語として忌み嫌われる対象となっている言葉ではあるのでしょうが、現在の古代一音節語による言語解釈では、<え>は海あるいは西を意味していて、<た>は方角を表す接尾語で、「東」は<あ><た>であり、「北」は<い><た>であり、「南」は<さ><た>で、それは今も日本中の地名に反映されている言葉です。そして<え>は、恵比寿大黒の<恵(え)>をも意味していて、海の恵(めぐみ)を表す言葉であり、その意味では<えた>は、むしろ美称と捉えるべきだろうと考えているのです。希少な海産物をもたらしてくれる人々、それを象徴する神が恵比寿大黒ということなのだろうと考えています。もっと言えば<あ><び>は<空>の<日>で空に昇る太陽を表し、<え><び>は太陽が海に沈んで姿を変えて海老となる、そんな太陽を中心にして、東西をイメージした様子が見えて来ます。それを現在でもまだ解消できないでいる奇妙な差別用語にしてしまったのは、時代々々の政治的思惑がそうさせたのでしょうが、その元となった原因は少なからず「伝来仏教」にあったのではと推量しています。多くの新興宗教は、現生で受ける(生じさせられる)被差別観念をもとに、その解放を求める強い情念からしか生まれないように思える節があるからなのです。いつでも起こりうる不幸な観念であると言えるでしょう。

 蝦夷(えみし)も都人(みやこびと)から見た東北人を指す差別用語だと言われた時期がありました。蝦夷と熊襲を間違って不買運動を起こされた有名な酒造メーカーの会長もいました。蝦夷の転用が<恵比寿>と思っています。その逆もあり得ます。

 ふと脳裡をよぎるのはあの平安時代前期に起こった「三一権実論争」で、会津は磐梯町の「慧日寺」の僧得溢(一)と比叡山延暦寺の最澄の論争です。法相宗と天台宗の、現代の我々にはとても抽象的な論争に見えてしまいますが、その、<人が絶対に依拠すべき原則>を相互に述べ合った論争のように思えてなりません。最澄は仏教の理念なりを敬い、得溢は理念よりも実証的な人生への認識論を語ったように思うのですが、まずは、差別用語がもともとは敬語である可能性もあり、「一音節語」の原日本語としての重要性をもう一度直視して欲しいと思うのです。