お墓の写真ばかりですが、これは昭和14年建立と言っていたもので、15年前のホルダーに入っていたものです。よく見たら昭和5年建立でした。昭和13年が曽祖父や祖父の死期が重なっていたために、間違ってしまっていたようです。
この墓の家紋ですが「丸に陰蔦(かげつた)」と云うのだそうです。我が家で日頃使っていた家紋は「つぶし木瓜(もっこう)」で円を楕円形にしてその中に木瓜紋があるものなのですが、奇異に感じたので調べたらこちらは「葵の紋」の代用であり、松平の家紋とあり、今ならなるほどと、腑(ふ)にも落ちるのですけれども、この時は全く理解ができませんでした。別人の墓と思えるほどですがしかし、墓の背面には「新潟県中蒲原郡荻川村大字中野 初代 松本 源太郎建之」と刻まれています。現在は、五泉市になっていますが、源太郎がこの地で結婚して(結婚させられてーすぐ離縁)移住した際にそこで建立された墓ということは分かっていたので、間違いなく我が家の墓ということになります。源太郎の建立とあるにはあるのですが、曽祖父が建てたものに間違いはありません。
彼は「松本」を創出したのです。もちろんそうせざるを得なかった理由の一つに「戊辰戦争」があることは間違いありませんが、他面「<家>を借りた」と云えなくもない気がします。嘉四郎、彼は十年ほどして白河から会津に戻って来てからすぐに、戸籍づくりを初めています。伝聞ですが、七日町に並ぶようにして北側に磐見町(いわみちょう)という遊郭通りがあり、この界隈に質屋があり、その店を営んでいた夫婦がどちらも亡くなってしまったため、残されていた子供らを我が家族として、その長男源太郎を家長として新たに戸籍づくりをしたように見えて来ます。この戸籍づくりには一人の市役所の役人の理解と協力があったことが謄本上からは窺うことができます。転記の際には彼、「佐瀬」の認印が常に使用されています。
「松本」と「佐瀬」は、会津における「蘆名」統治の時代にはその主要な役割をなっていた四家老のうちの二名にあたっていたために、むしろ鎌倉時代、室町時代そして戦国時代を通じ伊達に敗れるまでは親しい関係にあったと思われ、何度も「四家合考」に当たってみました。しかし、当初はあまりにも「松本」は、「蘆名」に対して謀反を繰り返すので、その本当の理由を見出すことができず、嘉四郎の「松本」を家老「松本」につなぐことはできませんでした。
いつか触れることはあると思いますが、家老松本は元々は今の鶴ヶ城におり、そこにいることが極めて重要な意義を持たされていたはずで、蘆名に無理やり明け渡されたという感じを受けています。
鶴ヶ城にて
<右 三谷 哲也 八段 右三人目 藤沢 里菜 七段(女流本因坊)> 2011年11月12日
昭和五年建立のこの墓が、いつの時点でここに移されたかは分かっていません。祖父もそしてその息子たちもこの存在を知らぬまま亡くなってしまっています。昭和十三年に祖父は四十九歳で亡くなり、その後を追うようにして曽祖父も同じ年に亡くなっています。
曽祖父の名は「嘉四郎」であり、祖父の名は「嘉一郎」ですが、父の名だけが「嘉正」で上の兄二人は「正」と「正夫」です。何が「正しい」のかは知りませんし、誰の指示を受けてかは知りませんが、二人とも雲水を装って「爆裂弾」を満州に運び、途中それを売り捌いて逃げ帰って来たというような奇妙な逸話も残されています。父が祖父から聞いていたという、「陸大」を卒業して最初に赴任した会津若松第二九連隊での「石原莞爾」の軍事教練の凄さを、祖父が「こいつは天才だ」といつも褒めちぎっていたことを合わせ考えると、どうしても「満州事変」という言葉が脳裏をよぎります。自分の出生地が戸籍謄本にしっかりと「満洲国瀋陽市」と記されているだけになおさらなのです。まして、やっと父から聞き出した命名の由来が、満州を「いつか再び日の本の世に」との願いを込めたものであったのには驚きを隠せませんでした。
その石原莞爾が赴任した第二九連隊の兵舎は戦後第二中学校になり、そこが学び舎になってはいたのです。学校は兵舎の一角に過ぎず、多くの戦争被災者がその連隊の兵舎に住んでいて、同級生の家に行っては三階ほどの高さのある屋根裏の隠し部屋で遊んだ記憶があります。一学級が50名を超え十数クラスもありましたから、相当の人々がこの中学校を中心に一つの町を形成していたことになるのでしょう。


