まだ妄想かもしれません。でもここに戻ってから20年が経ちました。残っていたのは母の伝承のみ。

 それだけを頼りにここまで歩いて来たので、その足跡を残して(晒して)みたいと思います。

 「この神社は曽祖父が建てた」と大正8年生まれの母からは聞かされていました。

 この神社は、会津若松市の西七日町にある「西福寺」に隣接しています(同敷地内)。西福寺も戊辰戦争で丸

 焼けにされた後に再建され、その時の住職を見つけ、住まわせたのも曽祖父であったと聞かされていました。

 五歳前後までこの地に住んでいて、顔に化粧を施してもらい稚児行列に加わったことは、未だに覚えています。

 ただこの稚児行列は西福寺の「六地蔵」を祀るもので、神社の方ではなかったような、極めて不確かな記憶で

 しかありません。

  これも伝承なので、真偽のほどはこれからですけれども、元は「極楽寺」と言われて相当の格式を持っていた

 寺院であったようなのです。真言宗で、慧日寺(磐梯町)の末社であったような。現在標榜している正式名称は

 「慧日山般若院西福寺」だそうです。その格式の高さを証するものは、確かに存在しています。スゴイ!です。

 「秘仏」と言って置きましょう。これはおそらくは曽祖父が先祖から託され隠し持たされていたものに違いあり

 ません。

 

 

 この六地蔵、もう一つとても気になるところにあるのです。昨年、長野県伊那市高遠町の建福寺のご住職の

 指摘を受けて、会津若松市建福寺前(これが住所地 小田山と云えば分かります)を訪ねたらありました「

 六地蔵」。こちらは、禅宗・臨済宗ということで宗派は異なっています。気になるのは、曽祖父がよく通っ

 ていた寺院は、七日町北小路にある「長福寺」で、おんば様のおられる寺院です。そこは曹洞宗です。

  まだ母が元気な頃、その寺院を訪ねてみました。その寺院の墓地のわりと目立つところに我が家の名が入

 った墓が建っていて、建立者名をみたらなんと曽祖父の実兄の名が刻んであったのです。驚いて写真などを

 撮っていたら、墓地に面した家屋から住職が突然顔を出して言うではありませんか、「その墓、まだ誰も入

 っていないよ」と。昭和14年建立の墓です。訪ねたのはすでに21世紀になってます。我が家の墓は西福寺な

 のに、戸籍どおりの墓が何故ここに? 

  祖父は一度曽祖父に「勘当」されています。若気の過ち、「會陽塾」塾生の身分でありながらの「会津小町」

 と評判だった我が祖母との駆け落ちを咎められての、「勘当」でした。「疾風怒濤」時代、青春の青春たる由縁

 と言ってはみたくなるのですが、本当は「ヴィ・ナロード」(民衆へ・ロシア革命)並みの、時代的正義感か

 らの「壁」を乗り越えようとした革命的心情の発露だったように思えるのです。後に曽祖父はそれを理解した

 かのようでしたが、その証左が「未空の墓」ではなかったのかとつくづく思います。

 

  西福寺が先行してしまいましたが、『DNA探究」はこの大層な「大明神」の由来の探究から始まりました。

 「柿本」がまず分かりません。次に「稲荷」はそれなりですが「五社」がまた謎だらけでした。稲荷も五社も

 20年を経た今日では、それなりに言及することは可能ですが、まだ「柿本」がよく分かりません。「稲荷」

 については昨年6月から、喜多方市慶徳稲荷神社に関して執筆依頼があったお陰で、かなり探究することが

 できましたので、随時お話できるかと思います。「五社」についてもまだ十分ではありませんが、<妄想>

 を加えれば楽しく迫ることが可能です。

  まずは自分に「乞うご期待」と。