運命に導かれる八犬士
歌舞伎座で『里見八犬伝』。原作は江戸時代に大流行した南総里見八犬伝。伏姫の死とともに空へ飛び散った八つの水晶玉に導かれ、八犬士が運命的に出会っていく物語です。
今回上演されたのは、犬塚信乃と犬飼現八が互いに仲間と知らず争う場面。名刀・村雨丸を巡る疑いから、大屋根での立ち回りへ展開する歌舞伎らしい見せ場の一幕でした。八犬士は若手中心。フレッシュな並びで、物語の「仲間が集まる途中」という空気がよく出ていました。
歌舞伎座という“音響装置”
改めて驚かされるのが劇場そのもの。歌舞伎座は約2000席規模。それなのにマイクなしで台詞が客席の奥までしっかり届く。
最新のホールでも音響補助が当たり前になっている時代に、江戸の芝居小屋の思想がすでに完成しているのが本当にすごい。
役者の声が「聞こえる」のではなく、自然に「飛んでくる」感覚。建て替えを重ねても客席形状を大きく変えない理由がよく分かります。劇場そのものが、すでに完成された楽器みたいなもの。
今日は全員、冒頭から台詞がビシバシ飛んできて、心地よいことといったら!(歌舞伎座といえども、時には台詞が聞こえない役者も…モゴモゴ)
立ち回りは漫画のコマ
歌舞伎の立ち回りはリアルな殺陣というより、漫画のコマ割りに近いものだと思っています。流れる動きを見るのではなく、
・構え
・視線
・見得
・身体の向き
といった決定的な瞬間を連続して見せていく芸。パラパラ漫画のように、一枚一枚の絵で物語が進む。だから主役ほど動かない。
戦っているというより、物語の中心のコマに立つ存在です。
ミュージカルとの決定的な違い
ミュージカルの立ち回りは基本的に運動。流れ・スピード・連続性で見せるアクションです。観客は「どう動いたか」を見る。一方、歌舞伎は停止の芸。観客は「どこで止まったか」を見る。ジャンルが違うと「格好良さの基準」もまったく変わるのが面白いところ。
だから歌舞伎では、動かない=手抜きではなく、最大の見せ場になります。逆に言えば、止まった瞬間に重心や気迫が不足すると、一気に弱く見えてしまう。今回の大詰では、大詰では周囲の役者たちが力いっぱい動き、舞台の熱量がぐっと上昇。その中で中央の静止が少し軽く見え、決めの瞬間としての重さが足りなく感じられました。動かないこと自体が問題ではなく、止まった瞬間に空気が締まるかどうか。歌舞伎の難しさと面白さが同時に見える場面でした。
大詰で感じた温度差
大詰では周囲の役者たちが力いっぱい動き、舞台の熱量がぐっと上昇。その中で中央の静止が少し軽く見え、決めの瞬間としての重さが足りなく感じられました。動かないこと自体が問題ではなく、止まった瞬間に空気が締まるかどうか。歌舞伎の難しさと面白さが同時に見える場面でした。
朝の部の一本目として
とはいえ、これは朝の部の一本目。ここで強烈なカタルシスまで与えてしまうと、その後の演目とのバランスが崩れてしまうのかもしれません。物語の始まりとして、勢いよりも「これから集まっていく八犬士」を見せる設計だったのだと考えると、あの温度感も納得できる気がします。肩慣らしのように幕が開き、観客も少しずつ歌舞伎の世界へ入っていく――そんな位置づけの一幕でした。
翻訳タブレット、ちょっと羨ましい
一列前にはインバウンドの観客の方。翻訳タブレットを見ながら観劇していました。ちょうど私の席からも英訳が見えたわけですが、登場人物が多い作品になると、日本人でもあれを借りたらかなり分かりやすいかもしれない。日本語の筋書きよりもシンプルw 八犬士だけでも名前・関係性・立場が次々出てくるので、頭の中で整理が追いつかなくなる瞬間があるんですよね。歌舞伎は分からなくても楽しいけれど、分かるとさらに面白い。
【配役】
犬飼現八:坂東巳之助
犬塚信乃:尾上右近
犬田小文吾:大谷廣太郎
犬川荘助:中村種之助
犬坂毛野:大谷廣松
犬村大角:市川男寅
犬江親兵衛:中村鷹之資
足利成氏:市川九團次
犬山道節:坂東彦三郎



