わかりやすい般若心経⑩ 出来ればお読みください! | 慈しみのひかり。

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視えない世界、精神世界について書いています。
特に、魂、神佛、霊界について。


 皆さま、ごきげんよう。
 般若心経⑩、一気に最後まで書き上げました。
 大事なところです。全部だけど…。
 お付き合いください。


 【究竟涅槃(くきょうねはん)】
 『究竟(くきょう)』というのは究極(=極める)。
 『涅槃』は”ニル・バーナー”。
 「バーナー」は欲望の炎。
 「ニル」は無い。英語で「ノー」。
 欲望の炎があるから、苦しみがある。
 欲望や執着の炎が吹き消された状態を
 『涅槃』という。
 だから、「涅槃を究極に極める」
 ということです。
 要するに、佛の知恵によれば、
 究極の涅槃を極めることもできるのです。


 【三世諸佛(さんぜしょぶつ)】
 この世界のすべての諸々の佛たち、
 これは頂点に立つ神・佛があって
 その子どもでもある。
 いろんな個性を持って、悟りを開いた者たちを
 『三世諸佛』といいます。
 『三世』は過去、現在、そして未来。
 ありとあらゆる世界の諸々の佛たちは、
 という意味です。


 【依般若波羅蜜多故(えはんにゃはらみたこ)】
 絶対的な親の知恵と慈悲、
 その『空』という実体の知恵と力に
 依(よ)るが故に。
 『般若波羅蜜多』に依るが故に。


   得阿耨多羅三藐三菩提
 (とくあのくだらさんみゃくさんぼだい)
 『阿耨多羅三藐三菩提』を
 日本語に直訳すると
 「無上正遍道(むじょうせいへんどう)」です。
 「無上」これより上が無い、
 最高であるということです。
 「正遍」というのは、正しき片寄りのない。
 あまねくすべてに満ち満ちる道、
 これを「無上正遍道」。
 インド語で『阿耨多羅三藐三菩提』といい、
 そういう悟りの境涯を得ることができる。
 

 故知般若波羅蜜多(こちはんにゃはらみた)
 故に、無常の知恵であり
 内在された最高の知恵を知ることができるのです。

是大神呪(ぜだいじんしゅ)
 是大明呪(ぜだいみょうしゅ)
 是無上呪(ぜむじょうしゅ)
 是大等等呪(ぜむとうどうしゅ)】

 『是大神呪(ぜだいじんしゅ』
 これ、大いなる神の呪分である。
 呪(のろ)いではありません。
 読み方で意味がとんでもなく変わってしまいます。

 『是大明呪(ぜだいみょうしゅ)』
 これ、大いなる明らかな呪文である。

 『是無上呪(ぜむじょうしゅ)』
 これ、この上が無いという最高の呪文である。

 『是大等等呪(ぜむとうどうしゅ)』
 これ、等しいものが無いという呪文である。

 【能除一切苦(のうじょいっさいく)】
 能(よ)く一切の苦しみを除く。

 【真実不虚(しんじつふこ)】
 真実にして虚しくない。

 【故説般若波羅蜜多呪(こせつはんにゃはらみたしゅ) 
 即説呪曰(そくせつしゅわつ)】
 故に説こう
 『般若波羅蜜多呪』佛の内在された知恵であり、
 その呪文である。
 『即説呪曰』即ち呪を説いて曰く。
 それではこの呪文を別の説き方でいうと
 どうなるかというと。

【羯諦羯諦(ぎゃていぎゃてい)波羅羯諦(はらぎゃてい)
 波羅僧羯諦(はらそうぎゃてい)
 菩提薩婆訶(ぼじそわか)】
『羯諦羯諦』いきましょう、いきましょう。
 英語の「ゴー」です。 
 『波羅羯諦』悟りの境涯に行きましょう。
 『波羅僧羯諦』
 この『僧』が大変大事な言葉です。
 自分だけが行こうというのではない。
 昔インド語で集団の事を「サンガ」といった。
 つまり佛法を求める集団を
 「サンガ」『僧』というのです。

 今の日本では僧侶ひとりでも『僧』と
 いうようになりましたが、
 もともとは佛法を求め伝える集団を
 『僧』といいます。
 だからみんなで手に手をとって、
 仲間で悟りの境涯へ行きましょうという意味です。
 
 『菩提薩婆訶』『菩提』
 要するに悟りが『娑婆訶』成就しました。
 だから
 
 『羯諦羯諦 波羅羯諦
 波羅僧羯諦 菩提薩婆訶』は
 行きましょう、行きましょう。
 悟りの境涯に行きましょう。
 みんなで悟りの境涯に行きましょう。
 悟りが成就しました。
 
 『羯諦』という言葉を沢山使ってありますね。
 これを別の言葉でいうと、
 「往生」という言葉になります。
 「往生」というのは、
 佛様の境涯に往(ゆ)き生まれるということで、
 これは心境の変化であって
 急に美貌や若さを得るわけではないが、
 今まで「不幸だなぁ」と思ってた心が
 「そうか、こんなに幸せだったんだ」と変わる。
 あなた方の心が変わるから、
 これが「往生」なのです。

 だから、この身体がなくなって、
 向こうの良い世界へ行くのを
 「往生」というのではないのです。
 極楽に宿替えするわけではないのです。
 あなた方がどのような場所にあっても、
 どんな状態にあっても、この「佛」の中にある。
 共にあることが喜びとなった
 その感動の心の状態が「往生」なのです。
 いつも「佛」と共にあるということが
 喜びとなる。
 そんな心境を体得することが
 「往生」なのです。

 「そういう世界に行きましょう」
 と言ってるのであって、
 決して肉体が死んで極楽に宿替えするのでは
 ありません。
 
 まぁ、肉体が死ぬことも「往生」だけれど、
 肉体があるから迷うのです。
 肉体があるときに、十分この通理がわかり
 「佛の願いの中にあるんだなぁ」
 とわかっていれば、
 肉体が死んだときに執着は消えます。
 そして、「往生」できます。

 ところが、それを考えたり求めたりして
 わかっている人が少なく、
 肉体がなくなって、執着だけが残る人が
 ほとんどです。
 自縛霊となって現世にしがみついています。
 
 『波羅僧羯諦』は、
 悟りの境涯にみんなで行きましょうで、
 この「みんな」は自分に縁のある限りの人で、
 現世に生きている人から
 霊界で地縛霊になっているものまで、
 自分に縁のある限りのもの全てです。

 だから、食べた魚や肉や、
 生活の中で何気なく殺している虫1匹の魂も含めて、
 「自分に縁のある限り、
 すべての魂と共にみんなで行きましょう」
 ということです。

 何度も繰り返した転生輪廻の中で、
 縁のあったすべての魂に、
 共にいきましょうと願う
 その思いが極楽浄土なのです。

 供養の時に、この般若心経を唱えるのも、
 この「ともに縁あるもの全て
 霊界の人も一緒に安養浄土に行きましょう」
 ということで、供養なのです。
 供養に付きもののご馳走も、
 すでに肉体をなくして
 食べたり飲んだりすることのできない
 霊界の人たちと飲食を共にすることで、
 執着を満たして
 共に極楽浄土に行きましょうと願う、
 これが供養になるのです。

 他を願う、霊界の人も
 自分に縁のある限りの人を願わせてもらう。
 これをしないことには
 自分も幸せではないんです。
 自分だけが極楽に行って、
 のうのうと「ああ楽だ、楽しみだ」
 という気持ちにはなれないでしょう。
 人間の本質は、
 縁のある限りの現世と霊界の人ともに、
 この素晴らしい世界にいたいということです。
 自分1人でいたって嬉しくないでしょう。

 この『僧』という言葉が、
 特に「般若心経」の1番いい部分を語っています。
 「みんなで」ということです。
 そしてこれをどのように実行するかということです。
 みんなで、縁のある限りの人が、
 自分の願う人すべてが、
 この世界に行ったときには
 『菩提薩婆訶』自分の悟りが満足する、
 成就するのです。
 『薩婆訶』というのは超えたという意味です。
 成就するという事と、超えてしまったと
 いう意味があります。
 だからスーパーなのです。 

 本当は般若心経をひと言で言ったら、
 この『波羅僧羯諦 菩薩薩婆訶』
 これだけになるということです。

 この前の276文字で
 難しいことをいっぱい述べてきたことが、
 たったこのひと言で言えるのです。
 
 『波羅僧羯諦』
 「みんなで佛様の世界に行きましょう」
 そのために、一生懸命毎日多くの人に
 救われてほしいという願いを実行しているのです。
 これは何かというと、
 「般若心経」を毎日唱えていても
 救われないということです。
 大事なことは実行です。
 みんながこのいい世界に、
 共に行けるという法がわかったら、
 霊界のすべての人たち、
 また自分に縁のある限りの人を願わせてもらう。
 「共に佛に会いたい」と願うことなのです。
 でも、それを自分が独り占めしようと
 いうのだったら、
 自分も地獄に行くしかないでしょう。
 佛の願いに合わないから、
 同じ世界にはいられません。
 
 極楽は、行きたいといっても
 行ける世界ではありません。
 「極楽はいい世界だから行きたい、行きたい。」
 と思って自分だけ行きたいと思う、
 それを地獄というのです。

 だから、「みんなで行きましょうね」
 ということです。
 みんなというと家族・友人・
 大きくは全世界の人々というように、
 肉体人間だけを思いますが、
 宮沢賢治が「あらゆる透明な幽霊の複合体」
 といったように、
 自分という現象は
 多くの縁のある霊たちの思いが、
 あたかも自分の感情のように
 よじれ混じって現れているのです。
 そんな見えない気づかれもしれない霊魂、
 人だけではなく、動植物やものに至るまで、
 すべての霊魂が、
 みんなで魂の親である神・佛に向かって
 成長していこうということです。
 それが「みんな」で、
 佛と共にありたいということです。
 
 佛は慈悲がすべてであって、
 悪魔もサタンもすべてが可愛い。
 佛から見ると、捨てるものは何もないのです。
 すべてが自分なのです。

 もっと根本です。
 すべて我が子であり、この願いの中にある。
 『波羅僧羯諦』位ではないのです。
 もともとは佛の中にあり、
 願いの中にあるのです。
 内在されていたというのは、
 あなた方は、神・佛の子どもであるからです。

 神・佛の慈悲は、あなた方の中に、
 すべて備えられているのです。
 内在された慈悲の心を、
 いかに現世で現して生きようかということです。
 
 佛は慈悲そのものです。
 みんなでという暖かい心が持てた時、
 悟りは成就してしまっているのです。

 そこで忘れ去られている霊・魂、
 しかし実在である霊・魂を優先し、
 自分よりもはるかに大きく心にかけて
 「日常生活すべて、霊たちと共に一緒に
 どんなことでもさせてください」
 という願いが、本当の祈りです。
 この姿が『波羅僧羯諦』であり、
 般若心経ですよと、締めくくられています。

               完