2020年3月19日 劇団TTR第十回舞台公演「よつば診療浪漫劇」観劇レポ(ネタバレ) | 2コ下のブログ

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星乃宮せな推し

 世の中がひっくり返って価値観が180度転換してしまった激動の明治時代が終わり、世界戦争勃発までの短い大正から昭和初期にかけて、世の中が落ち着くと共に文化が栄えた時代があった。令和の今と比べたら貧しい農村部は取り残されているとか、女性の自由もまだまだだったりなど、必ずしも津々浦々まで文化の恩恵に預かることができたわけではないものの、自由を尊重する文化、メディアや通信の発達、工業化と都市化の発達など、将来に対する夢や期待が広がり、今日よりも良い明日を展望できる明るい時代だったと認識している。現代は幕末のような閉塞感に満ちているけれど、あの当時の様々な問題は解決済みであり、実はほとんど全ての国民が王侯貴族のような生活を享受できている。要は気の持ちようだけであって、だからこそ今明るい大正浪漫をテーマにした本作が待望され、また観る人に与える影響も甚大であると思っている。だから、細かい筋書きはわからなくても、次は大正浪漫だと発表されたときに、ワクワクしてとても楽しみだったし、その期待は完璧に報われたと思っている。

 このご時世だから、という言葉を2月頃から繰り返し聞いていて、もう聞き飽きている。校長先生とか、議員先生とか、偉い人の挨拶には特によく含まれている。確かにスペイン風邪の再来と言われる世界的流行の中では意識せざるを得ないところがあるのは理解できるけれど、それこそスペイン風邪のように結局は免疫を獲得して人類が生き残ることになるわけで、自分の命が惜しい人達には大変な問題かもしれないけれど、結局神のみぞ知るということならありのままに生きるしかないと思っている年寄りにはあまり響かない。こうしていても交通事故で亡くなる人は全国で毎日約8人ずついるので、他にもっと気をつけるべき事は沢山あるように思えてならない。だからこそ、様々な圧力や葛藤を乗り越えて全17ステージを敢行できたTTRには敬意と感謝しかない。世の中のためには自分なりの方法で貢献してゆくしかないと思うし、責任ある立場の方々は万が一の場合には差し違えるくらいの覚悟で決断をしたはずだ。でも、玉砕覚悟ではなく、極めて冷静にやるべきことはちゃんとやっていて、とっても大人である。それこそ大声で喧伝することはできないが、きっと後の時代が評価してくれるであろう貴重な足跡を残したと確信している。

 例によって素人の気楽さで、独断と偏見により思いついたままに記憶と記録を記しておきたい。



■シナリオについて

 あらすじにあるように、偶然盗みに入った診療所は20年前に生き別れた息子の職場で、親子が邂逅しお互いにエールを送り合うというお話。診療所が寄り合い場所みたいになっていて、心臓病と思しき要之助以外は全員軽症又は健康で、片思い中。
 荒木節全開のテンポの良いドタバタ喜劇と、その場しのぎの嘘と誤解が事態をややこしくして次第に追い詰めてゆく流れはいつもの通り。恋愛感情が絡むのでラブコメの一種と言っても良いかもしれない。そもそもの血縁やソーシャルな人間関係はありつつも、そこに恋愛感情をベースとした別の人間関係が絡み合っているので、登場人物のキャラクターがより厚みをもって描かれている。
 また、今回は特に過去作品のパロディが随所にちりばめられていて、リピーターにはより一層帰ってきた感があって楽しい。最近見ないからわからないけれど、一頃のOVAみたいな感じ。
 物語の終盤ではお涙を頂戴して、明るく前向きに結ぶのが常だが、今回は父子の邂逅をベースにしながら、夢をもって生きろと強く背中を押すエンディングになっている。正直なところ夢は全て潰えてただ生活のためだけに日々生きていて後はそう遠くないお迎えを待って惰性運航している私自身が、ひょっとして夢をもう一度持っても良いのではないかと次郎に触発されているのを発見したとき、これは良いお話だなあと実感した。

 


 今回の台本は非常に分厚くて、105分~110分で上演されるのが信じられないくらい密度が高い。そのためか、上演当初は後述するように伝わりにくい箇所が散見されたし、演技が硬いなあと感じるところが随所にあったが、日々改善されていって、終盤は非常にスムーズになっているのを感じた。これは見る側の私が台本を読み込んだりして、より物語を理解しているからという側面もあるのだが、やはり意図的に改善されたり、演者の方々の練度が上がっていることもあるのだろう。舞台は生き物だということを改めて感じることができ、楽しかった。


■キャストについて

井上貴々=川上真(医師)
 いつもは嘘をついて追い詰められる側なのだが、今回は若くて親切で情熱的な医師の役ということで、凜々しい二枚目の姿が見られた。父親に捨てられ苦労した幼少期を過ごしたことで、父親を受け入れられず難しい顔をしていた時間が長かったのも、今までにない役だったと思う。最終盤の応援団のシーンはさすが、余人を以て代えがたい演技だった。

 


すずきつかさ=川上次郎(泥棒)
 今回は主役でずっと出ずっぱりだった。東京出身で成人後に神戸に行っていくら長く暮らしてもあそこまでの関西弁にはならないと思うのだが、それはさておきお父さんと音尾さんを微妙に使い分けながら周囲を煙に巻いてゆく演技はさすがだった。また、人生経験の豊富さを背景に、「いいこと」を連発してゆく中盤から後半は、中高年男性からしたら痛快で憧れ。しわすださんのイラストを見て改めて思ったが、単に面白い人というだけではなくて、舞台では少年のようなイキイキとした表情ができる方なんだと、その魅力がよくわかった気がする。

 


岡田彩花=望田やゑ(女学生)
 やゑといえば会津の新島八重を思い出すが、ネーミングは寧ろ女性パイロット、及位ヤヱからきているのかもしれない。ハイカラさんといえば矢絣の着物と相場が決まっているようなところがあるが、高級感のある緑の着物が本当に似合っていて、舞台をぐっと明るくしていた。恋に恋する女子高生みたいな役回りだが、当時お金持ちのお嬢さんしかなれなかった女学校に通う一瞬のモラトリアムという微妙な立場もきちんと演じていて、儚い美の輝きを存分に体現できていたと思う。



若宮亮=幸田忍(人力車屋)
 所謂気風のいい江戸っ子の役で、嫌味がないさっぱりとしたキャラクターは、やゑに限らず登場する全女性から好かれても良さそうなものだった。若宮さんの押しの強い演技にかかると、やや変態チックな鳥人間というのも別に構わないじゃないかと思えてくるから面白い。いくら体力が有り余っていたとしても、大正時代の人を若干バカにしているような気がしなくもないが、あそこで大凧を背負っても仕方がないのであって、宝塚のように羽を背負って文字通り「天使」スタイルになるのが観客サービスというものだろう。変ったキャラクターだったが、空回りすることなく、説得力があったのは流石だと、終演後落ち着いて思い出してみて改めて思った。


渋木美沙=森岡うめ(看護婦)
 冒頭暗転直後に酔い潰れてソファーで寝ていて、いびきをかき、寝言まで言うという衝撃的な登場をされていた。もうあの時点で物語に一気に引き込まれていたから流石だと思う。酒好きの看護婦というダークな設定だが、今回は悪い女役ではなくて、後半はメンソレータムのリトルナースを彷彿とさせるような、愛らしい看護婦姿を披露していた。但し酒臭くて、後半はそれを誤魔化すために消毒薬臭くなるという、やっぱりかわいいだけではない設定だったが。まあ、渋木さんが全開本気で素敵な女性役をやると、登場人物全員に惚れられてしまってバランスが悪くなるので、綺麗だけど・・・という設定にするしかないのだろうな。


中川ミコ=川野千代(出版社社員)
 大正時代は普通選挙が始まったことからもデモクラシーの時代で、今に続く人権と平等の流れが力強く存在した。その流れに乗って、出版社に勤めるOLを、非情にそれらしく演じていた。というのも、OLというスタイル自体がまだ珍しくてロールモデルがない中で、恐らく今のキャリア女性とは違って、恐る恐る、時には妥協しながらやっていたのではないかと思うのだが、その雰囲気がとてもよく出ていたと感じるのだ。芸達者だなあ。

 


網代将悟=藤枝貫一(師範学校生)
 バンカラというのは明治時代にハイカラのアンチテーゼとして確立されたそうだが、昭和の時代にも生き残っていたので当然大正時代にもいたはずである。師範学校といえば帝国大学よりは格下になるが、授業料が無料で将来の就職も保証されていたので、身分の違いを問わず優秀な学生が集まる学校だったそうだ。国の発展を担う人材を養成するのが公立学校の使命であり、その先生を育成するのだから高いレベルが求められるのは当然だが、帝国大学や私立大学の少ない地方の国立大学の前身になっているケースが多い。そんな真面目で優秀だが、ときのアプローチに気がつかない無骨な好青年を演じている。忍と共に、爽やかさを爆上げしていた。13stでときのブーツに草履履きの足を踏まれ、あわや中断かと思うくらい痛がっていたのが気の毒。

 


南名弥=矢吹薫子(お嬢さま)
 この方の顔芸は定評があるが、今回もたっぷりと堪能させて頂いた。台本では引っ込み思案でなかなか言葉が出にくい大人しいお嬢さまという設定だったが。対面する貫一と、千太郎以外の役者は薫子を眺めている他に特にやることがないこともあって、ほぼ全員が本番の舞台上でも笑いを我慢できなかった様子をみて、それもまた爆笑ポイントだった。ただ、あの大袈裟なドレスを着こなし、ちゃんと華族のお嬢さまらしい雰囲気を醸し出していたのはさすがだなあと思う。

 


大橋篤=石橋三郎(郵便集配人)
 今回は単純だが若くて爽やかな若者の役だった。弾けるような躍動感もあるし、キャラクターの使い分けがきっちりしていて、いい役者さんだと思う。根強いファンがいるのもよくわかる。

 


加藤真由美=川上まさ(次郎の妹)
 ある意味作品毎にあまりブレのない人。いつもうるさくて怖いオバサンの役だが、芝居とはいえ、あの食われんばかりの怖い顔をできるのはさすが。着物がよく似合う、というより普段から着て生活しているんじゃないかと思えるほどの着こなしはさすがだが、あの髪型は地毛を結っているのだと聞いて納得。物語に厚みと、緊張感をもたらすためには絶対に必要なポジションだと思う。

 


根魏山リョージ=斉藤要之助(出版社社員)
 今回は真っ白、ペラペラで、どうしたんだと心配になるくらい虚弱の役を徹底していた。この人も、またキャラクターを自在に操れる人だと思う。衣装もオシャレ。

 


だんしんぐ由衣=愛甲とき(女学生)
 薩摩出身の「薩摩おごじょ」の女学生役。薩摩といえば西郷どんのイメージがあるから、ある意味ぴったり。実際には目鼻立ちの整ったオリエンタルな美人が多い印象か。今でも保守的な土地なので旦那を立てるというか、一歩下がって支える(ように見えて自分の都合の良いようにコントロールする)タイプが多いように感じる。当時の女学生といえば、お金持ちの娘しかなれない最高峰のエリートだが、ちゃんとそういう気高い感じも出していたことに、感心した。若い役だが、今回は面白いキャラではなくて、いい人だった。鹿児島の方言が抜けない設定だったが、(自分はネイティブではないけど)自然にリアルに聞こえたと思う。

 


十二月一日絵梨=斉藤奈津(要之助の妹)
 相変わらずというか、人を寄せ付けない美大っぽいキャラ、しかも極度のブラコンに挑戦されていました。人を寄せ付けない「はぁっ?」というリアクションは素だと思うけど、その先にはなかなかねっとりとした魅力的なキャラが。しわすださんは、このまま謎多きキャラでいいです。でも、今回は画家志望がいたりとか、大事な役割を果たしていましたね。あの、冷水のような冷たいキャラと、ブラコンデレが同居するのが凄いし、魅力的です。

 


折田ジューン=久村寅松(土方)
 今回、初めてこの方の役者としての力量を見た気がする。まあ、直感的にわかりやすいキャラだし、OPアクトでも活躍していた。大正デモクラシーは、以降に続くプロレタリアートの源泉でもあるので、彼のようなキャラクターは非常に重要だと思う。彼が夢を持って生きてゆけるかが、この先の国の行く末を左右すると言って過言ではないと思う。

 


林里容=中島正吉(診療所事務手伝い)
 今までは物事に動じないおっさん(士業)を演じてきた気がするが、今回は正体不明の書生風情という役柄。とはいえ、他のキャストにパスを出し、上手くまとめてゆく技は健在。この歳で、更に年の離れた。アメリカに帰国したキャサリンを追いかけてどうするのかという疑問もなくはないが、それはアイドルにつぎ込む我々も人のことを言える立場にはないから、敢えて突っ込まない。まあそれでも、最後は鳥人間になってアメリカまで飛ばんばかりの勢いで、好演だったと思う。




赤沼正一=藤枝千太郎(警視)
 赤沼さんは、いつもうるさい親戚のオヤジ役とかが多い。加藤真由美さんと双璧を成す存在感は、適度な緊張感と、それ故の面白さを醸し出せるので最高だと思う。今回は佐山家ほどうるさいわけではないが、警視という地元の名士、藤枝家の家長としてのプライド、息子を立派な職業につけたいという親心が満載で、ステッキを持って頑張っている。頭の硬い、一筋縄では説得できない存在がいることで、物語がずっと分厚くなるし、緊張感が生じるので締まって見える。普段のキャラクターとは全然違うので、役者さんが役に入るというのはこういうことかといつも感心して見ている。



■岡田彩花について


 21歳も後半に入った彩花は大学に通っていれば最終学年、そろそろ就職先が決まるかという時期である。社会人としては丸3年が経つところで、もうルーキーではない。佐山家シンフォニアの再演で、初回は少し年上の役、再演では少し年下の役をやることに難しさがあると語っていたが、「キンギンヒシャカク」、「お笑い家族」ではJKを演じ、今回は16歳の高等女学校5年生を演じた。等身大の自分を演じることより、多少といえど世代の違う役を演じるのはずっと役者として大変だろうと思うが、それでもまだ自分がかつて通ってきた「来し方」を演じる方が行く末を演じるより、経験があるぶんずっと容易ではないかとは思っている。恐らく難しかったのは、箸が転んでもおかしい年頃、一目惚れ、余韻に浸る演技といった、自分とは違うキャラクターの部分だったのではないかと思う。やゑは感情が動くとすぐに声に現れるタイプだが、彩花は全くそういうタイプではない。2stを拝見したときは、恐らく台本と演出に忠実に、ピクピクする演技をしていたが、かなり無理しているというか過剰な感じだった。回を重ねるごとにこなれてきて、中盤からは大袈裟に漫画チックに演じながらも、ずっとリアルに改善されていたのが印象的だった。好きな忍に言われたことは全て良い返事で応じる素直な娘なのだが、この「良い返事」が気持ちがこもっていて、抜群に上手いんだな。本人がリアルに持っている素直な部分が遺憾なく発揮されているように思うのだが、普段は人見知りで知らない人には見せない一面なので、台本に感謝するほかない。
 あとはやっぱり、「とき」との友情。お互いに励まし合いながら背中を押すところや、舞台中央で抱き合うシーンなど、本当の親友もかくやというシーンは見応えがあった。若干16歳ではあるが、当時は最終学年で社会人として大人にならなければならないモラトリアムの最終局面という微妙な時期感をしっかり表現できていたと思う。そういう意味では16と21という違いはあるものの、時代の違いを考慮すれば等身大とも言えるのだ。


■気になったあれこれ

★浪漫
 浪漫主義とは、19世紀に欧州で生じた、それ以前の教条主義、古典主義へのアンチテーゼとして人間の感受性や主観に一層の価値を置く文化運動であって、個性を評価し、恋愛を賛美し、芸術作品における表現の自由をもたらした。ラテン語の文語体から口語体(ロマンス語)への転換によって文学の庶民への普及をもたらした現象は、ちょうど大正から昭和にかけて日本文学が辿った変遷と全く同じである。つまり、一部の貴族やプロが担っていた芸術に庶民を含め誰もが自由に参加できるようになり、ある程度権威との決別ができたわけで、若い感性を持ち多感な若者達を中心に人々を夢中にさせたことは疑うべくもない。自由選挙を実現したり、今も続く新聞社、雑誌社が達がある反面、後半には関東大震災が起きたり、治安維持法が成立して戦時体制に繋がってゆく流れもあった。
 何にせよ、服装や髪型に趣向を凝らし、自由恋愛や恋愛結婚がもてはやされるようになり、映画や文学で「ロマンチック」なお話に浸る自由を得て、宝塚歌劇団のようなアイドルの前身ともいえるグループが立ち上がる、まさに現代と共通する価値観が世の中に定着したという意味で、明るい時代だったに違いない。この時代を背景にしてTTRがコメディをやろうというのだから、細かい筋書きがわからない段階から、期待しかなかった。


★タクリー号
 調べてみたら、明治40年に日本で初めて10台製作された最初のガソリン自動車が「タクリー号」とのこと。時代考証的には大正5年に発売された現存する最古の「アロー号」の方が良かったのではないかという気もしなくはないが、何といっても名前がいい。馬車しかなかった時代にガソリン自動車が登場したインパクトといったら凄かったと思うが、ガソリンスタンドもないし、交通信号もなかった時代に自動車を運転するのはさぞかし怖かっただろうなあと思う。大雨が降っているから屋根がついていても濡れてしまう、という台詞は妙にリアルだった。
 そう言えば昭和の時代、自分の車に名前つけてかわいがる習慣があったなあ。私の最初の車はSusieだった(笑)


★ピリン丸
 明治時代に実存した、ダルマ印の風邪薬。恐らくアンチピリンのようなピリン系の丸薬だったと思われる。大正時代には、感冒薬とか、救衆湯とか、カゼネツ専門トンプクといった新しいタイプの薬が色々と登場しているので、「今はもっと効くお薬がありますから」というのはリアルな台詞だった。


★電話(1977番)


 電話機のダイヤル化が始まるより約10年前のお話なので、当然手動交換式だった。舞台に置いてあったのは、デルビル甲号磁石式電話機(かっこいい!)。これは明治時代に普及したタイプでデザインが秀逸なのだが、電池を内蔵していて使い勝手が悪かった。大正7年頃だと、電池の要らない共電式電話機が主流になっていたので、コンパクトな壁掛け式だったと思うのだが、デルビル式の改良型も大正5年に登場したりしているので、時代考証として間違っているとはいえない。あのハンドルを回すと、中に入っている発電機が作動して、電話局のベルが鳴り、交換手が応答して、相手先を告げると、パッチケーブルでつないでくれる仕組み。テレビや映画では、自分の番号を告げる場面がないし、仕組み上交換局ではどの電話機が呼び出しをしてきたかわかるので名乗る必要はないと思うのだけれど、そういう呼び出し方をしているケースもあったのかもしれない。普通は接続先の番号を言うのだけれど、あの時代加入電話の数はたかが知れていたので、役所とか有名な接続先なら、名前を言えばつないでくれた。さすがに私も生まれていなかったので知らないが、幼い頃に田舎ではダイヤルのついていない手動式電話機がまだ使われていたのは覚えている(NTTによると完全自動化は1979年だそうだ)。その後、その田舎の電話局にステップバイステップ交換機が導入されて、自慢げに子供達に公開されたとき、見に行って凄いマシンだ!とびびったのを覚えている。ダイヤルの動作と連動して、金属の指がカタカタと動いて、接点をつまむような動作をするのだ。その頃、都会の電話局は既にクロスバー交換機だったので、動く部分が小さくて複雑すぎて、子供が観てもどうなっているのか理解できなかったに違いない、という意味では貴重な経験だった。尚、今ではデジタル交換機なので、見た目はスパコンと良く似ていて、冷却ファンの音しか聞こえない。
 尚、劇中では受話器をフックに置いて「チン!」という感じで電話を切っていたが、あのフックは見た目通りただのハンガーで、スイッチとか仕込まれていない。正しくは、もう切って良いと思ったら、掛けた人か、掛けられた人どちらかが電話のハンドルを回して、交換手に終わりを伝え、交換手がプラグを引き抜くのだ。(http://www.hct.ecl.ntt.co.jp/ob/ob_07.html
 因みに何度も連呼していた診療所の電話番号、1977番は荒木さんの生年とみて間違いないだろう。


★郵便配達人


 郵便制度は明治時代に始まったが、全国の1100名の名主に委託する形で自宅を活用したサービスを展開し、舞台の時代には小包、簡易保険、そして何と国際郵便まで始まっている。しかし、集配業務の実務を担うのは逓信省の役人ではなく、三郎のような配達人(=人足)だった。服装まで再現されていて、あの当時の雰囲気がよく再現されていると思う。最近昭和以降の新卒一括採用や、終身雇用が崩れつつあるが、明治や大正の雇用形態は自由度が高かった。大店の丁稚制度もあったし、書生とか居候もあって、割合柔軟な生き方が許容されていたのは羨ましかったりするが、身分は固定されているし、労働者の権利とかなかったから、今の方がずっと良いはず。


★スプリングカメラ
 カメラについてはあまり詳しくないので調べたら、スプリングカメラというのは折りたたみ式のカメラのことで、レンズとボディが蛇腹で繫がっているのが特徴。形から察するにフィルム式ではなくガラス乾板式だと思われる。色々と現代とは違いが大きい中で、カメラはあまり変わっていないのが面白い。但し、露出もピントも手動だし、1枚あたりのコストが今よりずっと高くて自分で現像する必要があると思うから、誰にでも使えるものではなかった。もっとも、今のように誰でも簡単に使えるようになるにはオートフォーカス化が待たれるので、1980頃を待たなければならない。現像不要でコストが劇的に下がって身近になるためには、2001年の写メ登場を待たねばならない。


★久松留守
 お染風邪なんて、歌舞伎や浄瑠璃といった渋い趣味でないと知らないので、ここで取りあげるのはレアだし、恐らく太朗さんも今の状況を予想していたわけではなかったと思うが、医者も薬も効かない流行風邪=1889(明治22)~1891(明治24)年に猛威を振るったインフルエンザに不安になって「久松留守」の札を掲示した当時と比べて、現代がほぼ進歩していないという事実は強烈な皮肉である。まさかこのタイミングでこんなお芝居が上演されていたとは、(偶然だと思うけど)先見の明というか、天才的なセンスというか…。いずれにせよ、観劇した人の脳裏に強烈に印象づけられたに違いない。


★女学生


 細かい設定はないが、16歳で女学生ということは、高等女学校の最終学年だと思われる。女子として受けられる最高レベルの教育であって、裕福な家庭でないと行かせられなかった。当時は女学校を卒業すると同時に結婚したり、予め縁談を組んでおいて16歳になると同時に中退して結婚するケースがザラだった。つまりほとんどの学生にとって独身最後のモラトリアムであり、嫁入り修行の期間でもあったのだ。だから、やゑとときのような親友は一生の友達になったのだし、離れたくないと抱き合って泣くのは当然なのである。表面的には垢抜けていて楽しそうなハイカラさんだが、このような立場に置かれていることを織り込んだ脚本はさすがだなあと感心した。


★さつまおごじよ


 ときの体型から、西郷隆盛を連想し、「さつまおごじょ」と銘打つのは自然な流れで違和感がない。しかし、私の印象では鹿児島近辺の女性はエキゾチックな顔立ちの美人が多く、本当は逞しいのだが、男性を立てて優しいタイプが多いように思う。そうなるとなんとなくダンシングさんとは真逆なイメージなのだが、本作では説得力があるのでそんなさつまおごしょがいても良いじゃないかと納得しておく。


★貫一が描いた肖像画


 本作に登場する小道具の中でもかなり重要な肖像画。リボンと着物でやゑだということを主張しつつ、輪郭(シルエット)はときで、抽象画風にして右半分はやゑ、左半分はとき、という極めて味のある作品になっている。恐らくしわすだ画伯のデザインだと思うが、感心しかない。イケメンの貫一の、かなりお茶目な一面がこの絵で一瞬にして印象づけられるのである。


★ハナミズキの木
 作中でも出てくるが、大戦前の日米友好の象徴的エピソードが、ソメイヨシノを贈りハナミズキをお返ししたという一連のやりとりである。関東以西ではサクラといえばソメイヨシノというイメージだが、北東北の開花は連休ころになってしまって遅いので、木蓮など田植え時期に咲く花のことを代わりにサクラと呼んでいたと聞く。同様に、北米では自生していたハナミズキが春を告げる花であり、サクラとほぼ同じ扱いであると言っていい。個人的には桜吹雪の光景には他にないエモさを感じているものの、散り際の潔さに最大価値を見いだすソメイヨシノよりも、ハナミズキやモクレンに春のウキウキを感じたい。佐山家や両家では、庭の桜が印象的に描かれていて、それはそれで心の深いところに響く良さがあるのだが、それに固執しないところが好きである。


★四つ葉


 本作では、四つ葉の意味を、希望、真実、愛情、幸運としていた。世の中では、真実のところが信仰となっているバージョンが多そうだ。キリスト教では、ゼウス、キリスト、精霊という三位一体に、幸運を加えるバージョンもあるとかで、まあ好きに楽しめばよいのだが。いずれにしても、三つ葉に、幸運の一葉を加えて四つ葉というパターンが多いようだ。かわいらしいというか、大正と現代をリンクさせるシンボルとして四つ葉のクローバーに着目したのは秀逸だと思う。


★時計
 ソワレで観察していたところ、舞台上の柱時計が18:45だった時点で、時計は11:10を指していた。開演時点では11:25を指していたはずだが、暗転明けには11:40に進んだいたように見えた(見間違えかもしれないが)。「シャンパンタワーが立てられない」と同じく、秒単位で磨き込まれた演技によって、12時丁度に診療開始の宣言と共にオープニングアクトが始まる。この精密時計仕掛けともいうべき時計ワザは何度見ても惚れ惚れするし、反復の向こう側を垣間見ることができる、印象的な仕掛けといえる。


■伝わり難かったところ
▲やゑが貫一に待っていてくれ、いれば判ると伝えて忍を追って外に出て、お姫様抱っこされて戻ってくるところ。一体何がわかるというのか、何を伝えたかったのか。要するに私は忍に一目惚れして夢中だから自分のことを追いかけるのは諦めろといいたかったのか。そこまで用意周到に当て擦る必要があるのかなど、解釈に悩むポイントである。


▲やゑが無理矢理自分のまつげを抜いて顔につけて見せたのを忍が吹き飛ばすところ。睫毛を引っ張って抜こうとするところは判ったのだが、細かい演技なので台本を読んで初めて認識した。知って観劇すれば伝わるのだが。忍が顔を近づけたのはキスでもしようとしたのか、という風に見えた。


▲やゑがおにぎりを食べ終わて、真先生に続いて手を洗いに診察室に行くところ。そもそも、その前の時点で床で悶えているところを病気と勘違いして診察室に運ばれたのにいつの間にか先生の弁当を分けて貰っているし、手を洗うのなら洗面所で良いのではないかと思うが、わざわざ診察室に戻るのである。


▲三郎が案内してきた奈津を玄関先で放置するところ。入っていきなり次郎がうめに壁ドンしているのを目撃して我を忘れて、というシチュエーションは理解できるが、奈津を案内してきたことは部屋の外のことなので客席では把握できず、いきなり「表で永遠に放置されるかと、」といわれてもキョトンとしてしまう。


▲要之助が活動写真のカメラマンに憧れているところ。そうと知って見ていると確かにスチルのカメラではなく動画のカメラワークをやっているのだが、予備知識なしにお芝居を観ていると、他にもっと面白い展開に目が行ってしまうので、余程観察力がある人でないと気が付きにくい点だと思う。


▲時計を劇中劇の直前に30分進めるところ。台本に記載があるが、何故必要なのかが判らない。稽古のシーンを割愛したという意味だろうか。


■ステージについて


 ロケッツの舞台は写実をモットーとしていて、シンプルだが毎回なかなか凝った造形になっている。今回は診療所の待合室ということで渋めの木造になっていて、トイレの四つ葉型の磨りガラスが印象的である。正面奥は大きな掃き出し窓で、分厚い雲に覆われた空になっている。元々天気が悪いのだが、お話が進むに連れてどんどん天気が悪くなっていくように見える照明テクニックが凄い。
 ひとつ微妙に思ったのは診療所入り口のドアの錠。ドア最下部の引っかけ式のあおり止めみたいな感じに見えたのだが、それだと外から解錠できない。うめさんは内側からしゃがみ込んで解錠するのだが、正吉は外から鍵で解錠している。(外から鍵で施錠できないと帰るとき困る。)それならいっそのことドアノブのところで鍵を使って施解錠すればシンプルなのにとおもったのだが、そこは何かこだわりがあったのだろうか。


■感想


 一番印象に残っているのは、幾つになっても夢を持って前向きに生きていいんだ、というより、そうでなければならない、という強いメッセージだ。今この瞬間をを大切に、というメッセージは、ひょっとすると来週にはもうこの世にいないかもしれない(かなり極端だが、真剣にそう思っている人は少なからずいるはず)というコロナ禍の中では一層説得力を持っている。最近合理性や効率ばかり追求して息苦しくなっていた世の中だが、結果が全てではなく寧ろプロセスが大事なのだという提起にほっとするところがある。ここ20年くらい世界的というか、米国主導の新自由主義と生産性至上主義を取り込んだ(蔓延した)結果、主にお仕事に分野で世の中遊び(余裕)がなくなったと感じている。工場でギリギリまで効率化された生産による食品でありながら、「手仕事」とか「こだわり」と書くところにその弊害が現れているように感じる。知らず知らずのうちに余裕がなくて目先のことしか考えられないようにされている今、自分自身の人生に夢や希望を掲げることで敢えて棹さす大事さを、大正浪漫というモチーフを借りて伝えてくれたのだと解釈している。

 これが、明治でも江戸でもない、案外今と変わらない大正時代が舞台というのも改めて提示されて印象的だった。テレビやコンピューターこそないものの、今の世の中にあるものの起源の多くは大正時代にあったりするので、そう遠くもなく共感を感じやすい。時代を遡って生活スタイルを変えるとしても、大正まではほぼ抵抗なく戻れそうである。家電とガス風呂を諦めれば良いのだから。台所と洗濯はキャンプ場に近いレベルになるけれど。

 

 最後に大正浪漫について。人権に目覚め、自由と平等を希求した時代で、そこには今日よりも明日はもっと良くなるという希望があったと思う。子供が成長するように、個人としてできることややって良いことが増えてゆく感覚はさぞ楽しかったに違いない。また、劇中では一目惚れ(ズッキューン)が多発したが、ライトに素直に人を好きになる感覚はどこかに忘れて来たなあと思っていたら、初恋あたりの状況に似ているかもしれない。

 後先考えるのでもなく、人にどう評価されるかなんて関係なく、心が動いたから関心をもってもっと近付きたい、知りたいという気持ちに素直に従う感じ。これは大正時代だからというわけではないけれど、オシャレや芸術や恋愛に価値を認める余裕があったということで、大正と浪漫は相性が良い。それと比べて令和はどうだろうか、コロナがなくても相当病んでいるように感じてしまうのである。