【龍馬伝でんねん】寺田屋のお登勢さんと龍馬 |         きんぱこ(^^)v  

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      砂坂を這う蟻  たそがれきんのすけ

おとせ、登勢


 近江国大津出身で、山本重兵衛という旅館経営者の次女として生まれました。

 寺田屋の伊助という主人の所に嫁ぎ、病弱の伊助を助け、伊助亡き後に女将として寺田屋を切り盛りした人です。本当は伊助は木屋町に妾を持っていてそこに入り浸って帰ってこないので店をおとせが切り盛りしたとも言われています。


 龍馬がこのおとせさんに気に入られて、嫁になるお龍のことをお春と呼んで娘の様に扱ったことは有名な話ですね。

 おとせさんは龍馬だけでなく、どんな人でもいやな顔をせずに世話をしたと言われています。


 龍馬が暗殺された後のお龍は長崎に居ましたが、龍馬の実家に行きました。しかし水が合わずに坂本家を去って、土佐に住む妹の所に寄ってから京都に行きました。そのときもおとせはお龍を泊めていたそうです。しかしお龍は京都を後にして横浜に行き、商人と再婚はしたが、酒びたりで「龍馬~」と叫びながら生きてゆくわけです。


 享年は49歳。墓は京都市伏見区の松林院にあるそうです。



砂坂を這う蟻    現在は・・時代ブログモ~ド~~ (^^)v-1


 眉毛が薄くてなんか変な感じですね。何歳の時の写真でしょうか。昭和37年に廃盤になった古本に載っていました。


 おとせの寺田屋が幕末志士に人気があったのは、近所の旅籠に付ける船は道頓堀組合の6人船頭なのに対して寺田屋に付ける船は大阪八軒屋組合の8人船頭だったので、逃げ足が速かったからとも言われています。

 要するに大阪への急行列車を牛耳っていたということでしょうか。


 尊皇攘夷志士には、たとえ金が無くても泊めてやったり匿ったり、官吏に捉えられて護送中の志士が喉が渇いて泥水を飲もうとしたことを見たおとせは官吏に斬られることも省みず、綺麗な水を汲んできて飲ませてやったということもあったそうです。


 そんな気丈なおとせさんも49歳の若さで死にました。晩年のおとせさんの事は調べ切れませんでした。しかし維新政府からは志士を贔屓してきたことを皆が知っており、政府から贈位があったそうです。

 

 龍馬と寺田屋の縁は薩摩藩だったみたいですね。

 おとせの実の娘である殿井力(とのいりき)が明治初年に伊藤痴遊という人に語った話が『伊藤痴遊全集』に載っています。

龍馬先生とは元からのご懇意ではなかったのです。薩摩の邸からのご依頼で、阪本を邸内に置けない事情もあり、だからと言って市中で下宿させて置くのも危険ですが、おとせに頼めば大丈夫。何とかかくまってくれるだろうとの事で宅へお起こしになりました。母は快く引き受けて、宿客を一切謝絶して、二階へ隠匿って置きましたが、阪本さんは、昼はぐっすりと寝込んで、夜になると何処かへ出掛けて往かれる。雨でも降ると、二階に引き籠って、書見をしてゐなさる・・・
『伊藤痴遊全集』より(すこし読みやすいように変更しています)


 こんな縁から寺田屋と竜馬の縁が始まったのですね。

 殿井力は、幼少のころに龍馬が寺田屋に来ると二階に遊びに上がって、龍馬が面白い事を話してくれるので、お登勢さんから「龍馬を匿っているのですから大きな声を出してはいけません」と言われていたそうです。

 殿井力の話によって、龍馬の身なりが解ります。それによると

龍馬さんはいつも汚い服を着ていると言われていますがそんなことは無く、大の洒落者でした。仙台平の袴を履き絹の羽織を着て、時には玉虫色の袴を履いていました

 のだそうで、中岡慎太郎からも「龍馬はなんであんなにめかすのか・・・」と言われていたそうですね。

 そのくせお龍には「10人のなかでどこの誰やらわからんようにしておれ!」と怒ったそうですが。


 仙台平の袴はしわになりにくくて、今でも高級袴で数十万円程すると聞きました。


 龍馬は埃まみれではあったけど、着ているものは高級品だったのですね。


 龍馬が寺田屋に来ると、一階では客を遠ざけたお登勢さんが、夕食の支度をしていて、それをお春さん(お龍)が手伝い、子供だった殿井力が近所の子供と一緒にドコドコと二階に上がって、龍馬の幽霊話などをワクワクして聞いている姿が目に浮かびます。