
高野街道記念碑左の説明板には、河内鋳物師(いもじ)との関連から
銅鐸と梵鐘をイメージした記念碑とあります。

吉年邸を正面方向から見た写真ですが、高野街道は
旧町屋にバイパスがあり、実質的にこの吉年家の辺り
が東西高野街道の合流点となります。江戸時代はこの
楠が目印になったかもですね。この吉年邸の前が高野
街道です。鋳物師なのに商家のようになっているのは、
鍋や釜や農具など日用品の販売をしていたからです。
旅人に必要なものや、ご利益のある記念品も販売して
いたと考えられます。黒田官兵衛の家が広峰神社のお
札と目薬を抱き合わせにしたようにです。実態は今の
総合商社のような形態だったと思われます。
江戸時代末期には「ええじゃないか」のお札が、吉年家
に降ったということで、周辺の人たちの「おもてなし」を
したそうです。ありがたいことですが、お金がかかりまし
た。
江戸時代1800年頃大阪で鋳物が製造できる家は3家
(全国でも100家程度)しか無かったし、吉年家は有名
寺院や京都御所のご用達だったのです。

上の写真から少し歩いたところの写真です。蔵と楠が反対側
に見えます。

さらに歩いたところの写真です。中央の道は高野街道です。
写真右側が吉年家の長い塀です。江戸時代の趣があります。
この三叉路を左に行くと坂道となります。

高野街道はこちらに続いています。正面が吉年邸の楠です。
でも、町中なのでいろいろな道があり、この坂道以外に吉年邸
の塀を真直ぐい行くと、長野神社(吉年邸の隣)を通るバイパス
があります。
三叉路を真直ぐに歩くと、ここが吉年邸の長い塀の終わりです。
さらに、この吉年邸は奥行きもかなりあります。

付近のグーグル地図です。吉年邸の南には
長野神社が隣接しています。バイパスと書き
ましたが、バイパスの方に神社とか古い家も
あるので、こちらが高野街道本道かもです。

吉年邸の楠木の説明板です。
吉年家は千早赤阪村にある吉年という村の方が、
河内長野に出て、商いで成功し、その才能により
1800年頃には、神戸藩郷代官所の代官職も引
き受けていました。神戸藩は元の西代藩本多家
で、神戸に移転後ここに郷代官所を造り、膳所藩
本多家(本家)のように郷代官を置いていた。
西代藩の説明はこのリンクです。
膳所藩の郷代官所の説明はこのリンクにあります。
郷代官は有力な数家の協力と交代で務めていた。
百姓から年貢を集めて大阪で高く売り、その代金
を膳所藩に送金する仕事は、商才や指導力が必要
であった。
京都の公家で蔵人所の鋳物師担当だった真継家が
1576年に鋳物業を免許制とし、全国の鋳物師を掌握
(江戸幕府公認の座です)します。しかし、平和が続き
武器の武具の生産が少ないため、1800年頃には全国
に百数家しかなく、大阪では3家(すべて名字は田中)の
み免許を持っていました。
免許があると名字帯刀や全国自由に通行できる特典が
ありました。
上田村の田中喜久治は大阪の3人の1人で、現在では
三日市幼稚園付近に吹場がありました。その写真は
このリンクにあります。

田中家の吹場の絵図です。
長野村の吉年与右衛門が田中家のもとで、技術を伝授されて
下請会社的な形で創業(1718年)します。その後時は過ぎて、
1811年田中喜久治は多病と経済苦のため廃業を決意し、
吉年与右衛門の子孫で、親戚だった田中佐太郎に鋳物師
の免許を譲ると真継家に願い出て許されます。

そのときの許可書(許可へのお礼が真継家の収入になります。)
署名に齋部とあるのは真継家の本姓です。
そして、上田の吹場もすべて佐太郎に譲られます。

上田にある吹場の譲り状です。
佐太郎は田中姓(鋳物師としての作家姓)になっ
ていますが、神戸藩本多家郷代官の吉年作兵衛
の長男です。上田の吹場は1813年に長野村の
佐太郎の吹場に統合されて廃止されます。
これにより鋳物師職は吉年家に渡ります。

真継家よりの鋳物師認可状のお札が下ります。
あくまで鋳物作家の田中姓で許可されています。
以上の古文書は吉年家所蔵のものです。

写真右は佐太郎が1825年に製造した観心寺の梵鐘です。
左は京都御所に献上された鉄の灯籠です。
現在も大阪最古の鋳物会社、株式会社吉年として続いています。
会社のWebページはこのリンクです。
