膳所藩河内郷代官所を絵図で再現しました | みどりの木のブログ

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 今回は寺が池の開発の功績で、農民から
7石取の武士となった、中村与次兵衛が代官
として勤務していた膳所藩河内郷代官所は、
今は跡形もないのです。そこで、2度の現地
調査と考察により、代官所を絵図で再現しました。

膳所藩河内郷代官所
何故こうなるのかを以下で考察しています。
現在代官所跡の石碑は少し外れた位置にあります。


写真左端がその石碑です。この右側が長野保育園です。



教育委員会がここを発掘して、茶碗などの食器がたくさん出土
しました。右端には行者堂と高野山女人堂九里石があります。


行者堂です。ここに九里石があり、ここは江戸時代からあったと思います。


カメラを退くとこんな感じです。教育委員会の立てた説明看板もあります。
写真左には保育園があります。



説明掲示板を拡大したところです。右半分は英語で説明しています。
これによると膳所藩(6万石本多家)の村支配の最高責任者は郡奉行で、
その下に地方回りの役人がいて、その下に郷代官がいます。郷代官は行政
権しかなく、裁判権や立法権はなかったのです。
そして、膳所藩が明治4年に作成した代官所見取り図が大津で発見されました。
面積はたった330坪(約1100平米)しかなく。長さが書き込まれていました。


代官所の見取り図です。上を北にしてます。行者堂の所が代官所敷地から
欠けています。また、その上の発掘場所は台所になっています。食器が出て
くるわけです。ここに書かれた長さ(1間を1.8mとして)をもとにグーグルの
地図上に書き込みました。これをもとに最初の絵図を描きました。


長さをもとに書き込みました。代官所跡記念石碑は少しずれて
建てられています。昔はもっと大きいと思われていたようです。
最後にこの位置を縮小した地図で見ると。


この地図になります。西高野街道沿いに代官所を造った
事になります。それは、街道の監視や物流面で有利な面
があったからと思います。教育委員会はまだ発掘結果を
発表していませんが。こんな感じになると思います。各藩
は財政難なので、膳所藩でも明治になり門や建物は売り
払ったので、跡形もなくなったと思われます。
以前紹介の下館藩(石川家)白木陣屋も門などの建物
が再利用で売り払われています。
http://ameblo.mom/idryou/entry-11544485912.html

明日は百田さんの原作映画「永遠の0」を鑑賞したので、
その感想と大阪難波パークスと御堂筋のイルミネーション

をUPします。それを1枚だけ貼っておきます。