昔からずっと「ふつうになりたい」と思っていました。
どこに行っても、ここではないような、周りから浮いているような違和感があって、
ずっと日本在住の外国人のような気分でした。
他の人たちみたいに「ふつう」になりたくて、でもどうやったらなれるのかわからなくて、
ちっぽけな頭であれこれ試行錯誤して、四苦八苦して。
きっと気づかずにおかしな言動をしているのかもしれないから、
極力、言動に気をつけて、できるだけ口を開かないようにしよう、とがんばっていた時期もあり。
愛おしいほどばかですねぇ(笑)
でも、ある日職場の同僚に
「ふりぃだむさんって、変わってるよね」
そう言われたときのショックときたら!!!。
こんなに言動に気をつけて、うかつなことをせぬように自分を押さえて
周りから浮かないようにってがんばってるのに
それでも私は変わり者??
あまりのショックに
「えっっ!?どこが!?どこがどう変わってるんですか??
私、何か言動おかしかったですか?直すので教えてください!!」
と、くい気味に質問しました。
この時点で変わり者だと、今のわたしならわかりますが、
このときはほんとに、衝撃でした。 それこそ笑劇(笑)
同僚は、
別に言動がおかしいわけじゃなく、個性的だなと思っただけだよと、
フォローしてくれたんですが、
「じゃあわたしの何をみて変わってると感じるのか」と聞いたら
「え~、毛穴から出る空気感?」
これで、すぱっとあきらめつきました。 ムリヤリふつうになろうとすることに。
だって毛穴、っていわれたら、もうね(笑)
でもなぜか、「ふつう」への憧れは、ずっとこころの片隅に残ったままで、
わたしはふつうでいることに何を求めているんだろう、と悩んでは、
つかめそうでつかめない、じれったい感じでした。
少なくとも、社会に出て、いろんな人と関わるなかでわかったのは
わたしがあこがれた、人生を「ふつう」に生きているように見える人たちは、
よくよく知っていくと、みんなそれぞれ悩みを抱え、こころに爆弾をかかえて、
それを見ないふりしたり、おさえこんだり、葛藤を抱えながら必死に生きていて、
人間的な弱さも黒さも卑怯さも、たっくさん持っている。
ふつうに生きてる人って、悩みはあっても気にせずに、
明るく前向きにおおらかに、イキイキと人生を楽しんで生きている、
そんな強い人たちだと私は思いこんでたんだ。
そんな大きな誤解をしていたことに、気づきました。
そして、ふつうの人と同じように言動をなぞっても、そうはなれないことも。
長くなりましたが、なんでこんなことを急に記事にしたかというと、
ふつうになりたい、という自分でもよくわからない願いの、
本当の核にあるものがわかりました。
たまたま見つけたブログ記事だったんですが、
あぁ、そうかって感じで、やっと腑に落ちました。
ふつうに何を求めていたのか。
大野木さんってセラピストの方のブログで、
タイトルも、その他の記事も、ことばに血が通っていて、
こころに入ってくるものがありました。
http://ameblo.mom/ookii-noharano-ki/entry-11807364007.html
わたしが求めていたふつうは、
真実、神、愛、悟り、ワンネス、いろんな表現はあるけど、
超えたところにある絶対的な何か、
を、もがきながら求めて求めて、
つかんだと思ったらわからなくなったりしながら、
さまよったりぶつかったり、また目が覚めたりを繰り返して
いつかその探し求めた何かが、ゆるぎなく当たり前になってて、
ぐるっとまわって元のように、人のなかで、ふつうに生活していく。
その 「ふつう」。
天を地におろして生きる。
深いところで、そんなことできるわけない、って思いこんでました。
やりたいけど、できない。
現実はそんなお花畑じゃないんだよ、って。
それをする大変さもよく知っていて、
一度挫折した経験もあって、きつくて、
だからこの世界で人間である限り、キリストでもなきゃムリだって思うことで、
世界のせいにして、やらないいい訳にして、逃げていました。
でも、もしできるとしたら?
どうする?
どうしたい?
やっぱりわたしは、こころの底から、幸せに生きたい。
こころの奥から本当に満たされる、本物の甘露を知りながら
ちがう飲み物を甘露だと偽って、飲み続けることはできない。
甘露をわかちあって生きる。
できない、じゃなくて
できるところから、少しずつでいい。
もしかしたら99%、できないことばかりかもしれない。
それでも、できたり、できなかったり、後ずさったり、ジグザグ迷走しながらでも、いい。
また、ここから出発します。
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