2011.3.11
あれから10年後。
どんな世界になっているでしょうか。
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私たちは埼玉県に住んでおり、別々の職場で働いていました。
今の職場への転職が決まり、
家族のゴタゴタもありながら引っ越しの準備を進めていました。
当日は夫は休日で、私は職場で引き継ぎのための作業の追い込み中でした。
夫はちょうど荒川にかかる橋に差し掛かるところで
私は職場の事務室でただならぬ揺れを感じて
夕食用に調理の方々が準備していた丼が波打っていたのを今でもはっきり思い出します。
小学校教諭を引退して調理の仕事をしていた方がすぐさま扉を開けて
テレビをつけてくれたのだけど、
それを観たらそこには日本列島の左半分が真っ赤になっている。
見たことないことが起きていた。
その日は委託業者の栄養士さん(通称チーフ)が休日だったため、
私が代理で現場の指揮を取りました。
チーフはちょうどイオンモールにいて、
「停電で真っ暗になってみんなパニックだった」
とおっしゃっていました。
その話を聞いてから、ずっと小さな懐中電灯を持ち歩いています。
職場は当時老人ホームでしたが、誰も転倒者はおらず、
震度5弱でも被害はほぼありませんでした。
ただ帰宅するための電車などが全て止まっていたため、
練馬区に帰る園長の車に運よく同乗させていただいて
18時過ぎに出発したのですが、どこもひどい渋滞で
帰宅したのは23時半頃でした。
(園長はさらに1時間後に無事到着したとおっしゃっていました)
3階にあった我が家は先に帰宅した夫が片付けてくれており、
食器の氾濫が酷かった、という話を聞きました。
翌日からは出勤したくても電車やバスが動いておらず
20分以上歩いて到着した駅のシャッターが降りていて
またとぼとぼ帰ったこともありました。
隣のスーパーから物が無くなって、電気がついていないこともありました。
ガソリンスタンド渋滞で1時間半も並ばないと入れられないこともありました。
計画停電で、真っ暗闇をバスが運行していたのも
帰宅してトイレを開けたら夫がいて驚いたことも(笑)
夫は職場が7階だったので、階段で通勤したり
階段で3〜6階の病棟に食事を運んだそうです。
私は残務をこなすために、電車が動いても帰れる保証がないことから
ケアハウスのゲストルームに3泊4日させてもらって
なんとか職場の引き継ぎを終えられたことを今でも心から感謝しています。
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バタバタしたま千葉に引っ越しし、
新しい仕事と環境に慣れるのに必死で、
寄付以外のボランティアはできなかったなあ。
もっと何かできることがあったのかも、と思ったのと
2013年に自分も水害で被災した経験から
JDA- DATに登録しました。
寄付は自分もボランティアをさせていただいて20年以上お世話になっている
ADRA Japan を通じて行いました。
情報はあの頃はテレビと新聞、Twitterがほとんどでした。
Twitter検索したら、こんなことを書いていました。
ちょうど1年前、こんな綺麗な虹を見ました。
10年後の今日は、あまりに神々しくて写真を撮らなかったけど
空の雲を眺めていたら本当にたくさんの龍神様がおられて、
背中に数えきれないほどの魂を乗せて
この世界を見せてくださっているように感じました。
忘れることも時には大事ですが(執着とか)
忘れないことが大切なこともあります。
多くの悲しみ、苦しみが癒されて
これからも起きるであろう災害に備えて
できることを積み上げていきたいなあと改めて感じました。





