←油断中のセルヴァ
 これが、もし、バックが古家の階段ではなく、竹藪か何かで、新聞に掲載され、見出しに「中国で新種の山猫発見!」などという見出しが躍り、発信元が「国連の機関」とかだと、皆は本当だと思うだろう。だれも、雑種の猫ちゃんだとは思わない。
 情報の操作。
 これが国家的な事になれば、必要なときもあれば不必要な時もある。
本当のことを知りたいと願うのは皆だと思うし、本当の事を知らないと正確な判断ができないと言うこともある。
 本当の事を知って、それに対する「公共の福祉」に則した判断ができ、その判断に基づいて自分の行動を制限(コントロール)できる人間はすべての事実を包み隠さず知り得ても良いと思うのだが、アタシのように凡夫であれば何かの折に、自分の利を優先するのは火を見るよりも明らかだ。公共の福祉なんて「何ですか?それ。」の世界である。

 そんな国家的な事でも、思想的なことでも無く、自分に関する情報は知りたいと思うのは人間誰でもだろう。
 しかし、人個人の見方なんて、見る人のフィルターがかかってしまい、ほとんどの場合、意味のないモノである。
 昨日の記事の真意はここにある。
 その、意味のないモノを自分の肥やしにするには、真剣に聞くしかないのである。
 一つの立方体を頭に描いて戴きたい。
その立方体の真ん中あたりを、一枚の白い板が上下を区切っているとしましょう。
 その上が、自分にとっての受容域、すなわち許されると判断される領域。そして、下側が「許せんなぁ。」と言う「非受容域」と考えて戴きたい。

 或る情報を得たとき、受容か非受容か判断してどちらに入れるか。

 自分を高めると言うことは、いろいろな話が受容か非受容かしっかり判断し、自分なりにそこから導き出せるモノを、生きるためのデーターとしてどちらの領域でも、しっかりと保存できているかと言うことである。
 流言飛語の中にでも真実が隠れていることがある。
それは受容域の定義によって明らかにされることも多いのである。
 そして、その領域の定義されるところの、一枚の白い板は自由に上下し、領域は必ずしも受容、非受容同等の広さがあるとは限らない。
 上下位置は話す相手によっても変わるし、自分の精神状態によっても大きく変動する。
 そのコントロールをきっちりすることが「真剣に聞く」って事である。
 
 大切なことは、受容であろうが、非受容であろうが、情報の重さには変わりないと言うことである。
 流言飛語、悪口、どんな情報でも大切に扱える人間的度量を備えたいモノである。