こんにちは。
今日から秋土用ですね。
季節の変わり目、養生が大事です。
もう既にインフルエンザの流行が始まったようですが
秋に肺を痛めていると、冬に風邪をひきやすくなります。
肺の養生をしっかりしていきましょう。
11/7の立冬までは、ゆっくりペースで。
10~11月のイベントラッシュを
こちらにまとめました。
今日は珍しく
「時間の決まった予定はない」日。
あ、夜の夢告堂はありますが。
今回の「秘密の感情カードと熊野観心十界曼荼羅」は
どなたでも受講できます。今からでも録画合わせて全部視聴できます。
カードを使った事例が多いので
前回のより分かりやすくなったのではないか?と感じております。
という感じで、毎日何かしらはやっていますが
時間に縛られないのはありがたいな~。
やりたいな、と思っていたこともできるし。
前置きが長くなりましたが
今日はずーっと書きたかった
関西旅行の振り返りで
まずは、三浦大知さんの平安神宮奉納公演「球体」
について、感じたことを書きます。
※「球体」公演レポはまた別に書きますので
こちらは、どちらかというと私が感じたこと中心になります。
今回の関西遠征は
これのために行くことが決まったのだけど。
私の場合は、その前後にどこへ行くか?
そして何を体験するのか?も含めて
全部が
「球体」
だったなあと感じるのです。
「球体」はコンセプチュアルアルバムだけど
そのストーリーは、三浦大知さんも、創られたNao'ymtさんも
詳細を語りません。
ただ、このタイトルが
「球体」
である以上、プラトンの人間球体論が想起されるし
ジョルジュ・サンドの作品に「クレーター」も出てくるので
その辺りの思索とは、私のイメージの世界では
切り離せないのです。
それは自由だと思います。
解釈は、ひとりひとりに委ねられているから。
ですので、これはひとつの
「球体」という作品を通じて
自分の人生について探求する中年女性のものがたり
として読んで頂いて、
その上で、ご自身のものがたりに響くところを
受け取って頂けたら、大変うれしく思います。
私は平安神宮にたどり着く前に
室生龍穴神社、室生寺、當麻寺、
そして「仏教と夢」展を回りました。
こちらのレポもまた後日詳しくしますが
受け取ったのは
「人間が全体性を取り戻していくことが必要である」
でした。
大自然そのものが奥宮である、室生龍穴。
水の流れは、昔の人達が地球の恵みと共に生き、
時に、荒ぶった自然によって命を失うことがあったことを
示しているのだと感じます。
大自然への畏怖を失うと、人間は傲慢になるというか…。
室生寺の如意輪観音菩薩は
昨年、心打たれて涙が出て
それ以来、大好きな仏様になりました。
今回、またお参りできたことは無上の喜びでしたが
と同時に
「あの場所にお参りしなければ、如意輪観音さまと
つながることができない」
のではないな、と感じました。
つまり、外側に体験するすべては
自分の中に
「ある」
を実感するためのもの。
私たち人間は、つい欠落を脳がキャッチするので
「ない」
を探したり、ないことを強化したりします。
でも、逆説的ですが
「無の境地」
というのは、無いのではなく
「ないと感じていたことが幻想」
だと悟ることではないかと思うのです。
そう感じながら観た
7年ぶりの
「球体」
今回は「奉納」バージョン。
びっくりしましたよ…。
いきなり、曲順が違うから。
まさに、私自身の思い込みでした。
「球体の世界観とはこうである」
と、自分の中で固定していた何かがあった、
ということですよね。
最初に大きなところが壊れて
ボーっとしながら、その場で起きている「今」に
完全にフォーカスしながら
息をのむように、公演を観ていました。
私は
「球体」
というものがたりを
愛する人がいたけれど、その人と物理的に離れてしまって
(たぶん死別…)
たったひとりの「君」を探し、さまよい歩く
そして、取り戻そうと何度も繰り返すけど
そのたびにうまくいかない
悲しみ、無常を表現した作品だと解釈していました。
で、もちろん、そういう側面もあるけれど…
それだ!と固定してしまうと
ものがたりに囚われると思うのです。
それと、9月に善行寺さんで体験した「お戒壇巡り」でも感じましたが
そもそも、私たち人間は
目をあけている、見えていると思っているけど
暗闇の中を、手探りで歩いているようなものではないだろうか?
と思うのです。
暗闇の中を歩くのは、やはり怖いです。
何があるか分からないから。
でも、そもそも生きていると
先が見えない、わからないことって
たくさんあると思うのです。
恐怖を感じるのは当然。
でも、もし迷ってしまうとしたら。
それは、自我レベルのみで生きているからではないでしょうか。
ユング心理学でいうところの
Self
いろんないい方があるけど
真我とか、ハイヤーセルフとか。
それが今回の旅でいうところの
「室生寺の如意輪観音様」
だとすると。
私の小さな自我が
いろんなことを感じたり
こうしたい、ああしたいと思うのも自由。
だけど、自我の見えている範囲は
とっても小さくて
いうなれば、双眼鏡で世界を見ているようなもの。
よく、流れに乗る、流れに任せるというのは
やはり、Selfの導きに委ねるということで。
Selfは、双眼鏡の周りにあるものも
全部見えているので。
それは自分自身でもあるし
もっと大きな「何か」
(宗教じゃなくても、何か大いなるものみたいな
日本のもともとの神道の
すべてのものに神宿るみたいな)
その導きを感じながらも
自分の中で分裂している
さまざまな「自分のかけら」
を統合していくことなのではないかと思うのです。
今回、三浦大知さんが
「球体」
を奉納する中で、私が感じたのは
「これは、三浦大知さんが奉納をして
私たちはそれを見ている」
という図式ではないんだな
ということでした。
私たちは当事者である、と感じました。
そうでなければ、演出で2回も
舞台から降りてくる必要性がないと思う。
演者と観衆で、演者が奉納している
これを、客席を巻き込んだことで
一体化させてしまったのだと思うのです。
どこか、遠いところにいる
自分より素晴らしい存在である
としている「神」だったり「仏」だったり
今回なら「三浦大知さん」が
自分たちと同じなのだ
自分たちと同じ土壌にいるのだ
それを示したのではないだろうかと。
そして、舞台から降りてきた時の曲は
「テレパシー」
あの時、会場が全員、彼に注目しているのに
彼が演じている「彼」は「君」だけを追い求めているので
まったく、目に入らない。虚ろな目をして、さまよい歩く。
それって
何かを探して、さまよい歩く
私たち自身の無意識を
テレパシーで受け取っているってことなんじゃないだろうか。
全部受け取った上で
次の「飛行船」で
ご本殿に向けて、全身全霊でパフォーマンスした三浦大知さんは
私たちの代表として
「神様(自分の内なる大いなるもの)に対して
自分で生きる!」
と宣言したのではないだろうか。
だから、最後が
「世界」だったんだと思う。
あれはラブソングじゃない、と私は感じました。
(ラブソングと思ってもいいけど、自由だから)
わたしとわたしの統合の話なんです。
外側に求めていた、自分の片割れは
見つからないし、見つかっても、いつか別れは来る。
でも
自分の内なる統合に向かっていけば
「球体」
となることができる。
今回、曲順が変わり
最後に「世界」が来たのは
わたし的には、そういうメッセージなのだと思いました。
そして、この内側の統合がなされていくと
他者との関係が、圧倒的に良くなるのです。
これは
「たかはしゆうこがそういう風に世界を見ているから
そう感じただけじゃない?」
と言われてしまえば、それまでの話です。
ただ、ずっと三浦大知さんという方を見てきて
「推し」
という言葉では表現できないほど
彼の生き様から、いろんなことを感じ
ある意味私にとってスサノオみたいな人だと
思ってきました。
大いなる父性で、オオクニヌシに試練を与える
そんなところも持っている人なのです。
2018年から、7年という時を重ねた
「新しい球体」
圧巻でした。
と同時に、ずーっとずーっと、三浦大知さんは
「自分で在ること」
を、Naoさんと共に伝え続けてきて
「Be Myself」からずーっと続いていて
今、最新作は「Polytope」
そして、11月にはついに2人で
曲をリリースします。
「皆既」
もう、曲名からして鳥肌です。
「自分でいて下さい」
「唯一無二の自分で在ること」
は、私もずーっと受け取り続けているメッセージ。
今回は、自然界からさらにそれが強く
感じられた気がしています。
(個人的には、ニギハヤヒさまや役小角さま関連の
土地巡りをいつのまにかしているようなので…)
自分自身も、自己統合を進めている途上。
これが完璧になされる日は来ないかもしれないけど
少なくとも、自分に背かない生き方をしていくと
本当に楽だし、リラックスできるから
自然と他者貢献したくなるものなのだと思います。
2025年、10月12日の平安神宮での「球体」奉納。
あの時、あの空間を
体感させてもらえて、本当によかったです。
行かせてくれた夫や次男にも
心から感謝です。
共に体感できた長男、そしてたくさんの
「自分を生きようとしている」
一緒に観た皆さま、魂を寄せていた皆さまにも。
今日もお読み下さりありがとうございました![]()
メルマガでは、最近
本当のスピリチュアルって何?
をテーマに書いています。






