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山陰基央『神道の神秘 古神道の思想と行法』(春秋社、2000) 

 ■目次 

〇無教祖、無教義、無戒律、無偶像 

〇一霊四魂 

〇神々の階層構造

〇禊ぎと祓いと鎮魂 

〇霊能について 

〇他界観 

〇無教祖、無教義、無戒律、無偶像神道は仏教やキリスト教、イスラム教のような「創唱宗教」とは異なり、要するに教祖またはそれに匹敵する人物がぞんざいしない「自然宗教」である。そのため教祖はもちろんのこと聖書などの教義も存在しない。またそれゆえ絶対的な戒律も存在しないのが神道の特徴である。またさらに社や神鏡のようなものはあるが、それはあくまで神霊が降りてきてくださる処であって、それ自身を崇拝しているわけではなく偶像というものもない。そもそも神道は大自然の内にある秘めたるものを畏怖し、感謝し、崇拝してきた宗教であるため、人や人の言葉にあまり重きを置かなかった。神霊に比べたら人や人の言葉は大したものではないという謙遜的な考えが神道にはある。また神道は多神教であるため、体系的なものを統一する必要がなかったというのも無教祖、無教義、無戒律、無偶像である所以だと思われる。そのような特性を持った宗教であるため、神道は他の宗教以上に宗教に携わる人(神主など)によって言っていることが違うのも特徴である。

 〇一霊四魂絶対的な教義や戒律が存在しない古神道にもある程度共通した哲理は存在する。そのひとつが「一霊四魂」という霊学的な哲理である。これは全てのものに対して適用されるもので(人だけでなく他の生物も、神霊や宇宙全体も)、その名の通り1つの霊は4つの魂を有していいるという意味である。一霊:直日霊(なおひのみたま) 

四魂:荒魂(あらみたま)   

和魂(にぎみたま)    

幸魂(さちみたま)   

奇魂(くしみたま) 

 「荒魂」が旺盛になると、新陳代謝が活発なったり、筋骨隆々となったり、意志の強さが増す。「和魂」が旺盛になると、内分泌系がよくなったり、ふくよかな体になったり、おおらかで包容力が上がる。「幸魂」が旺盛になると、感性に優れ芸術的感覚が増したり、品性が高いものを好むようになる。「奇魂」が旺盛になると、霊的能力や直観力、英知力、統制力がつく。しかしどれも欠如はもちろんのこと過剰になっても害をもたらす。また宇宙全体(大環宇大霊)は霊の潮流であり、そこから個性を有した凝固体が生まれ、さらにこの凝固体のうち無意識体である「荒魂」と「和魂」が物を創造し、意識体である「奇魂」や「幸魂」が生命を作り出す。 

〇神々の階層構造古神道は多神教であるが一神教のような側面もある。というのも古神道にもGodやブラフマンのような創造神が一神存在する。この創造主を山陰神道では「大元霊」と呼ぶ。神道では種々様々な神様や霊はもちろんのこと、この世に存在するありとあらゆるものはこの「大元霊」の分霊であると考える。そのため人の内にある直日霊もその起源は「大元霊」ということになる。このような考え方を持つこともあってか、神道には神々や霊の階層構造が存在する。高天原(根源神界)諸神界浄明界霊界幽界冥界地獄界それぞれの界にもさらに階層構造がある。要するに霊界のなかにも上部や下部といったものがある。聖書では人と創造主(神)がやり取りをする場面がある。しかし神道においては、創造主である「大元霊」と人は直接やり取りをすることはない。いや、やり取りをしないのではなく、「大元霊」とはやり取りができないという方が正しい。人と「大元霊」の間は交渉できるほど接近しておらず、会話はおろか知覚することさえ不可能なのである。またもっと言えば「大元霊」どころか浄明界すらもほとんどの人は感じることができない。そのため神道からの視点で見れば、聖書の中の創造主と交渉している場面はありえない状況で、もし交渉できたとしてもそれは創造主ではなく、創造主の分霊である別の神様ということになる。 

 〇禊ぎと祓いと鎮魂「禊ぎ」と「祓い」と「鎮魂」は神道において大切なキーワードである。「禊ぎ」は「清明正直(せいめいせいちょく)」の「清明」を保つために、心を浄めることであり主に水を使う。神社に詣でる前に手水を使うのも、汚れを落として浄めてから神前に向かうためである。「祓い」は罪や科、汚れなどを落とし、御贖物を差し出し、心身の活力を更新することである。神道にはユダヤ教やキリスト教、イスラム教とは異なり原罪というものがなく、罪を犯しても内奥の霊魂は汚れないという考えがある。そのため神道では罪からの解放(救済)を目的とせず、霊的な罪は禊ぎや祓いによって落として心身を浄め、「大元霊」の分霊である直日霊を成長させていくのを目的とする。そしてゆくゆくは神となる。「鎮魂」とは魂を丹田に集めて鎮めさせることがである。一般的な人の魂は乱れており体の周囲にガスのように散乱している。これを鎮めて魂を安定させるのが「鎮魂」である。そしてさらに鎮魂を通じて、直日霊、言い方を変えると内なる神様と対話し、人と神様が精神的に融合した「神人合一」を目指していく。しかし「神人合一」の体験は第一段階であり、その後には慈愛溢れる奉仕が待っている。損得や高慢さを排した奉仕、神様が創造したもへの奉仕の精神を抱くようになってこそ真の神人合一となる。この「鎮魂」は大乗仏教の「空の思想」に似ている。考え方は異なるが、神道では神人合一の体験によってこの世界全体の調和を理解し奉仕を行い、大乗仏教では空に至った後、この世界が空性であることを理解し、俗と聖が円融し、仮説によって人々にそのことを説く(もちろん両方とも神職や宗派によって考え方が多少異なるが)。 

 〇霊能について人間の霊的な問題への欲求はやむことなく、また霊的な現象も起こり続ける。それは当然のことで、”人間は霊魂であり、神霊は存在する”からである。霊能者や占い師などに対して、唯物論者は胡散臭いと指をさす。そんなもの証明できないではないかと論じる。これにはふたつの原因がある。ひとつは唯物論者が霊的なものを信じていないということと、もうひとつは胡散臭い霊能者が世に蔓延っていることである。前者は理解しやすいため後者について述べる。神道の考えによれば、人間は霊魂であり、人間の直日霊は「大元霊」の分霊であり、神霊のような霊的な存在は確かに存在する。またそのため人間はその霊的なものへの欲求を持つ。しかしそれによって胡散臭い霊能者、著者の言葉を使えばろくに神霊とは何か、魂とは何かについて理解してない霊能者が跋扈している現状がある。鎮魂を行わず危険なものも含めていろいろなものを受け取ってしまっている霊能者や、少し霊的なものが見えたからといって、言葉が聞こえたからといって、それを使って怪しげな宗教や占いを行う。そもそも一口に神霊といっても様々なものがおり、人々を導く高級な神霊から、人々に悪さをする低級の神霊までいる。しかも厄介なことに低級な神霊のほうが人間には感じやすく、半端な霊感を持つ人は低級な神霊にたぶらかされやすいのである。そのため霊的なものを感じた時は、それがどんな神霊なのか見極めることが大切である。しかし一般の人々にはその見極めが非常に難しい。神道には「審神(さにわ)」という者がおり、その神霊が高貴なものなのか低級なものなのか見極めることができるものがいる。神霊から受け取った啓示のようなものが本当かどうかを知るためには、そういった専門の方に尋ねることが一番である。〇他界観神霊の存在を肯定する古神道には死後の世界がある。「祓い」のところで述べた直日霊の成長は死後も続き、清明な浄化を通して上の界へと昇っていくのである。人の魂は死後いきなり高い階層へとは赴かない。はじめは現世に近いところに留まり子孫などを見守る。そしてその後、精進と浄化を通して上の世界へと上っていく。しかしいくら上っていくといっても、高天源のような世界へは容易にたどり着くことはできない。また現世で罪を犯した魂も、永遠と地獄に監禁させるわけではなく、罪を贖うことによって、再び浄化の道へと赴くことができる。「一霊四魂」の観点から考えると、荒魂と和魂は死後現世に残り、直日霊と幸魂、奇魂は身体から抜け神霊の世界へと移っていく。荒魂は肉体をつかさどるものであるため、土葬や火葬によって崩壊していく。この荒魂が崩壊していくときには負のエネルギーである「死のケガレ」が生まれる。仏教とは違い神社が葬儀を行わないのは、死体というケガレの強いものを神様が降誕する神社に持ち込まないためである。そのため神道式で葬式を行う場合は、神社ではなく当人の家で通夜を行うのが一般的である(宮司でも)。和魂もしばらく現世に留まることがある。和魂は幽界と現世の間で通信的な役割をなす。祖先祭りで祭っている魂や位牌につく魂はこの和魂である。幽霊とは、不慮の死や事故死によって現世に残された現世に対する執着や怨みを持った荒魂や和魂が、霊感を持ったものによって活性化され現れたものである。また古神道には前世来世の考えがある。仏教では生まれ変わり(輪廻)は迷いからくるものであると否定的に捉えられている。しかし神道では肉体を持ち活動することは霊魂を成長させるためであったり、一回の人生では成し遂げることができなかったことに再び挑み、世界全体を発展させていくという、肯定的な考えを持っている。