本日の一食めは午後2時半だった。
夏場と違って、冬はお腹が空かない(笑)
時間は決めず、本当にお腹が空いてから食べるご飯は、感謝と共に言葉にならない程の気持ちが芽生える。
 
 
周りから見ると質素に見えるかもしれないが、こういう食事が自分にとっては最高のごちそうで、見ているだけでココロが満たされる。
 
お米と梅以外は自然からの頂き物おねがい
 
 
玄米(5分つき)
手作り納豆(大豆は自家栽培)
釣った鮭の味噌漬け
自家製梅干し(梅は購入)
フキの煮物(春に塩漬け)
キュウリの粕漬け(夏に塩漬け)
カボチャとハタケシメジの味噌汁
(カボチャは自家栽培、シメジは干して保存食)
味噌汁の味噌は自家製味噌
 
 
我が家の食料自給率はかなり高くなったが、100パーセントまでの道のりはまだまだ先だ。
 
お米はこれから少しづつ……ニコニコ
 
 
 
そして今、頭からなかなか離れないことがある。
 
 
それは狩猟免許というワードだ。
 
 
少し前までは全く考えてはいなかったのに、頭からそのワードが離れない、困ったチュー
 
 
 
山で鹿を撃ち、運び、解体する。
自然の中で育った鹿肉は本当に美味しい。

だけど自分に出来るだろうか……キョロキョロ

 

 

 

海で鮭を釣り上げたら

 

 

棒で思いっ切り頭を叩き失神させる。

 

 
失神させたらエラから包丁を入れて血抜きをする。
 

 

思い切り叩く時も正直楽しくはない。
エラから吹き出す血を見るのも楽しくはない。
 
 
釣れた喜びの裏側にいつもあるのは
自分の残酷さを受け入れなければならないことだ。
 
 
「ごめんね、そしてありがとう」と言いながらも自分は残酷な人間なのだ。
 
 
だからこそ、大切に食べようと思う。
自然を大切にしようと思うし、自然の全てに畏敬の念を感じずにはいられないのだ。
 
 
それは、スーパーで切り身を買うだけではわからない。
 
 
同じように自分の代わりにお肉を処理をしてくれている方々がいる。
 
 
 
自分で鹿を撃ち、肉を自分で解体し、食べる、それをやってみなさいという事なのかもしれない。
 
頭から狩猟という言葉が離れないのは。
 
 
 
頭の中で聞こえる声がある…
 
 
魚は出来てなぜ動物は出来ない?
植物(野菜)だって生命であろう
結局、人間は生命を食べて生きている
魚の次は動物で試すといい
人間は残酷なのだと受け入れなさい
その残酷さを体験で味わいなさい
 
 
それに対して私は抵抗する
 
 
まだそこまでの準備(ココロの)は出来てない!
動物を殺してまでは食べなくてもいい
 
 
すると
 
 
それなら全ての肉を食べる資格はない
 
 
 
と言われたチュー
 
 
 
 
まるで神との対話みたいだ(笑)
 
 
我が家にもあるけどなチュー
 
 
お肉は小さな頃から食べて生きてきた。
だけど、スーパーで買ってきたお肉だ。
 
 
自らが全てをすることなど考えたことはなかった。
 
 
現実的に、山へ行き、鹿を撃ち、それを運び、解体することは多くの準備が必要だ。
 
ムリムリムリ~!チュー
 
 
と言うと言われた。
 
 
お前の中に無理は無かったのでは?と笑い泣き
 
 
確かにそうだ。
 
 
ちなみに今年の私の目標はなんと!
『自分が自分の言う事を聞く』なのだ。
 
それは年が明けて、1月2日に降りてきた言葉で、なんとなくそうしようと決めたこと。
自分の心の声に従うというのは、今までもやってきたから出来る。
 
 
 
と言う訳で、いつになるのかはわからないが、狩猟免許を取得し鉄砲と弾を購入し、そう遠くない未来に山で鹿を撃ち、自分で解体するのであろうなチュー
 
 
 
ああ、やりたくない
でもやらねばならぬのか……
 
残酷さを自ら味わい体験するためにチュー
 
 
生きるとは、綺麗ごとではなく残酷を受け入れることなのだな……………………
 
 
 
ああ、複雑な心境だキョロキョロ