出雲を旅した時、私は、出雲を吸収した、

大和の国の小役人のイメージが湧き上がりました。

もしかしたら、あったのかもしれない。

そんな物語。


歴史ではなく創作です。

けれど、この物語を書かずにはいられませんでした。

 

龍の国の夕暮れーーーーー
 

凪人(なぎと)が初めて出雲の国を見たとき、

兄がこの国に惹かれる理由が分からなかった。

 

大和からの使者として出雲へ向かう道中、

赤足(あかあし)は何度も出雲の話をした。

 

山が美しい。

川が美しい。

人が美しい。

 

まるでそこに帰りたい場所でもあるかのように。

 

そして、峠を越えた時だった。

視界が開け、凪人は思わず足を止めた。

 

 

空が広い。

 

 

大和にも空はある。

 

だが出雲の空は違った。

 

 

山間にたなびく雲が、

まるで龍そのもののように動いている。

 

 

生きている。

そんな言葉がふと浮かんだ。

 

 

「どうだ」

兄の赤足が笑った。

 

「変わった国だろう」

 

 

凪人は頷いた。

変わっていた。

 

山は近く、

川は静かで、

人々は不思議なほど穏やかだった。

 

市場に並ぶ木の器でさえ美しい。

 

農夫の鍬でさえ装飾が施されている。

 

凪人には理解できなかった。

なぜそこまでするのか。

使えれば十分ではないか。

 

 

 

その夜。

二人は重臣ムクゲの館に招かれた。

 

そこで凪人は娘のさらなと出会った。

頬には赤い刺青。

夕焼けのような色だった。

 

さらなは静かな瞳で

「戦は望みません」

開口一番そう言った。

 

 

赤足は苦笑した。

「私もだ」

「ならば帰ってください」

「ここから出て行ってください」

 

沈黙が落ちた。

囲炉裏の火が小さく鳴った。

赤足はゆっくり答える。

「帰れば済む話ではない」

「ならば戦になります」

「それも望まぬ」

「ではどうするのです」

赤足はしばらく火を見ていた。

「落とし所を探す」

 

さらなは笑った。

初めて笑った。

だが冷たい笑みだった。

 

「落とし所」

「そうだ」

 

赤足は火を見つめた。

そして静かに言った。

「出雲を失わせてはならぬ」

 

その言葉に、

奥に座っていたムクゲが顔を上げた。

老人の目は鋭かった。

 

「大和の使者よ」

低い声だった。

「お前の言葉は美しい」

赤足は黙って聞いていた。

 

「だが美しい言葉で国は守れぬ」

ムクゲは酒を飲む。

「北の国もそう言われた」

「西の国もそうだ」

「共に生きよう」

「共に栄えよう」

「皆そう言われて消えた」

 

さらなの目が揺れた。

凪人は息を飲む。

 

ムクゲは続けた。

「次は出雲だ」

囲炉裏の火が弾けた。

 

「大和は野蛮だ」

凪人が思わず顔をしかめる。

だが赤足は動かなかった。

ムクゲは言う。

「武の話ではない。美を知らぬ。それが野蛮だ」

 

窓の向こうに夜の山が見える。

「山を削る。民を数える。兵を集める。税を取る」

「国は大きくなるだろう」

「だが魂はどうなる」

 

赤足は静かに答えた。

 

「だから私は来た」

 

ムクゲは目を細めた。

「何だと」

「出雲を滅ぼしたくない」

 

初めて赤足の声が揺れた。

「この国は美しい」

「大和にはないものがある」

「ならばなぜ来た」

 

さらなが問う。

赤足は答えなかった。

答えられなかった。

彼自身、

その問いの答えを持っていなかったからだ。

 

その夜。

凪人は眠れずに、外へ出た。

月が山を照らしている。

 

そこに、さらながいた。

風が刺青の入った頬を撫でる。

 

「あなたの兄は変な人ね」

 

さらなが言った。

 

凪人は笑った。

「昔からです」

さらなも少し笑った。

 

ほんの少しだけ。

「でも」

 

さらなが空を見上げる。

「もう遅い」

 

凪人も空を見る。

 

雲が流れていた。

龍のような形をしていた。

 

「何がです」

 

さらなは答えなかった。

ただ、

遠い闇を見ていた。

まるで、

まだ見ぬ炎を見ているようだった。

 

づづく。