
みずから悪をなすならば、みずから汚れ、みずから悪をなさないならば、みずから浄まる。浄いのも浄くないのも、各自のことがらである。人は他人を浄めることができない。
たとい他人にとっていかに大事であろうとも、他人の目的のために自分のつとめをすて去ってはならぬ。自分の目的を熟知して、自分のつとめに専念せよ。
(法句経 ダンマパダ12章165~166番)
汚れた霊が人から出ると、休み場を求めて水の無い所を歩きまわるが、見つからない。そこで、出てきた元の家に帰ろうと言って帰って見ると、その家はあいていて、そうじがしてある上、飾りつけがしてあった。そこでまた出て行って、自分以上に悪い他の七つの霊を一緒に引き連れてきて中にはいり、そこに住み込む。そうすると、その人ののちの状態は初めよりももっと悪くなるのである。よこしまな今の時代も、このようになるであろう。
(新約聖書 マタイによる福音書12章43~45節)
上記は釈尊の言葉、下記はキリストの言葉。
どちらも同じことを述べています。
つまりそれは、「他人が自分のことを浄めることは出来ない」という意味です。
キリストは浄霊についてもう少し具体的に述べています。
浄霊によって、一時的に霊が祓われても、その人自身が変わらなければ、また元に戻ってしまうし、以前よりひどくなってしまうというのです。
このキリストの言葉のポイントは、浄霊の後「その家はあいていて、そうじがしてある上、飾りつけがしてあった」という部分です。
つまり浄霊はうまくいったのでしょう。その人はとても綺麗になりました。しかし空き家だったということなのです。
これは何を意味しているのでしょうか。
おそらくこれは、せっかく浄霊をしたのに自分自身を生きていない状態のことを述べているのだろうと思います。
つまり、自分の中心に自分がいないのです。
たとえば、あるお祓い師のところへ出向いて行って、浄霊をしてもらったとします。その後、そのお祓い師に心酔して、その人の言うことならなんでも鵜呑みにして生きていたとしたらどうでしょうか。
または、とある新興宗教に入信して、なんでもその教え通りに生活していたらどうなのでしょうか。
キリストはこのような状態をも予見して述べています。
どんなによい教えを聞こうが、ヒーリングを受けようが、浄霊をしてもらおうが、他人のために命を捨てるような献身をしようが、自分が自分の中心にいるということをしていなければ、それはみな元の木阿弥、無駄な労力になってしまいます。
釈尊は述べています。
「他人の目的のために自分のつとめをすて去ってはならぬ。自分の目的を熟知して、自分のつとめに専念せよ。」
キリストも述べています。
「自分を愛するように、あなたの隣り人を愛せよ」(マタイによる福音書19章19節)
まず自分から、そして自分自身でありなさい。自分が自分の中心にいなければ意味がないのだと。
さて、あなたは自分自身の感覚を信頼していますでしょうか?
あなたのハートはあなたの中心にいますでしょうか?