十六夜の魔法 

その日の夜の風は、いつもより冷たく感じた。

庭の花たちは、まるで疲れ果てたように首を垂れ、

百合夜が触れた葉からは、もう生気が感じられなかった。


指先に残るのは、かすかな冷たさ。

花たちは、静かに息を潜めているようだった。


「……どうしたの、みんな」


春に咲かせたばかりの花々は、まだ季節を終えるには早い。

それなのに、どれも同じように力を失っていく。

水も、陽も、手入れも怠ってはいない。

それでも花たちは、見えない何かに怯えるように萎れていった。


ひとつ、黒いビオラだけが夜の中で凛と咲いていた。

深い紫がかった黒の花弁は、十六夜の月光を受けて静かに揺れている。


「……あなたは、元気そうね」


百合夜はそっと膝をつき、黒いビオラに指を伸ばした。

冷たい夜気の中で、ただひとり生き生きと咲くその姿が、

どこか不思議で、心を惹きつける。


その瞬間、風がひときわ柔らかく吹き抜けた。

十六夜の月光が、かすかに揺れる。


――ざわり。


花びらが震え、影がひとつ、庭の奥から伸びた。


「花に話しかけるとは、ずいぶん奇特な趣味だな。」


静かな声がした。

月光の下、黒い影の中にひとりの青年が立っていた。

夜の闇のような髪、静かな水面を思わせる青灰の瞳。

その瞳は、冷たい光を受けて淡くきらめいている。


百合夜は息を呑んだ。

見知らぬ人影――けれど、なぜか嫌な感じはない。

むしろ、ここにいるのが当然のように思えた。

「……え、あの……おかえりは、あちらです。」


思わず指さしてしまう。

夜風に、青年の黒髪が静かに揺れた。


「……は?」


青年――いや、どこか人とは違う気配をまとったそれが、眉をひそめる。

月光の下、その瞳がかすかに光を宿した。


「ふ……」

低く笑うような吐息が、風に溶ける。


「冗談よ。」

百合夜は小さく息を整え、目を細めた。

「あなた……人じゃないわね。誰?」


「……私は……名など、忘れた。」


「うそ。名前はすべてを縛るの。

 名前を忘れたら、人の形は取れないはずよ。」


その言葉に、青年は一瞬だけ目を伏せた。

風がやみ、庭がシンと静まる。

花の香りも、夜の虫の声も、すべてが遠のく。


百合夜は息を詰めたまま、その横顔を見つめた。

――どこか、懐かしい気がした。

理由もなく、涙がこぼれそうになる。


ゆっくりと、青年は顔を上げた。

月光がその瞳を照らし、青灰の光がきらりと揺れる。


「……レヴィ。」


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