とるべき道
何か世の中で気になることが起きたとき、
昔の私だったら大きな声を上げて反対しただろうと
思ったりするのですが、
以前とは違ってきています。
強く反対はしない。
それは相手に力を与えてしまうことだから。
でもね、スルーはしません。
スルーとは、消極的肯定のような気がして。
第二次大戦前、世の中がきな臭くなってきたとき、
ほとんどの宗教家は沈黙しました。
以前はなんと弱腰な、と思っていたのですが、
それは的外れだったかもしれません。
もしかしたら上に書いたように、
抵抗することで相手に力を与えること、を避けようとしたのかもしれない。
しかしその結果、私たちが教科書で知る結果となりました。恐ろしいほどの力が、普通の人々を翻弄し、傷つけていきました。
あれはあれで、あるべき姿、起きるべきことだったのでしょうし、被害は最小限だったのかもしれない。でもそれは神のみぞ知ることです。
だから私は、これはおかしい、と自分の本能が非常ベルを鳴らしたときには、スルーという態度をとるかわり、内省することにします。
無視するのではなく、自分の中にある理想の力を確認します。
相手をたたきのめそうとするのではなく、私が為すべきことを探します。
敵視するのではなく、愛を贈り続けます。
昔の私だったら大きな声を上げて反対しただろうと
思ったりするのですが、
以前とは違ってきています。
強く反対はしない。
それは相手に力を与えてしまうことだから。
でもね、スルーはしません。
スルーとは、消極的肯定のような気がして。
第二次大戦前、世の中がきな臭くなってきたとき、
ほとんどの宗教家は沈黙しました。
以前はなんと弱腰な、と思っていたのですが、
それは的外れだったかもしれません。
もしかしたら上に書いたように、
抵抗することで相手に力を与えること、を避けようとしたのかもしれない。
しかしその結果、私たちが教科書で知る結果となりました。恐ろしいほどの力が、普通の人々を翻弄し、傷つけていきました。
あれはあれで、あるべき姿、起きるべきことだったのでしょうし、被害は最小限だったのかもしれない。でもそれは神のみぞ知ることです。
だから私は、これはおかしい、と自分の本能が非常ベルを鳴らしたときには、スルーという態度をとるかわり、内省することにします。
無視するのではなく、自分の中にある理想の力を確認します。
相手をたたきのめそうとするのではなく、私が為すべきことを探します。
敵視するのではなく、愛を贈り続けます。