ききみみずきん
植物や動物、精霊たちの声を聞くって、おとぎ話のようだけれど、実際に分かる人はいるんですよね。
もともと聴き取る能力が備わっている人もいるけれど、だれでも理解する能力は持っています。
問題は、その人に「聞く気」があるかどうか。
ところで、私はこうやって、スピリチュアルな物事に関わるようになっていますが、実生活ではただの母親。思春期の娘のやることなすこと、気になるし、心配になります。
ここしばらく、なかなか娘に気持ちが伝わらず、娘もこちらに伝えようとはしないので、ちょっとぎくしゃくしていました。
なんでだろう、と自分のいらだちの原因をつらつら考えてみたのですが、ようやくひとつ原因らしきものを見つけました。
それは、彼女が今、耳を塞いでいるということ。
娘は、少し前、おばあちゃんからもらったお金で、 iPodを買いました。そして、それを学校にいるとき以外は片時も手放さず、音楽を聴いています。(今はLady GaGaにハマっている)
で、家に帰ってきたらきたで、今度は家のオーディオセットのヘッドフォンを使って集中して聴いている。音楽を聴くのはいいのです。まわりの雑音から離れて、それだけを聴いていたいのもわかります。
それにしても、どうしてずっと耳を塞いでいるんだろう。
娘は小さい頃から、とても周りの変化に敏感な子どもでした。木々のざわめき、鳥の声、空の色、雨粒の大きさや音の変化、みぞれが雪に変わるときの微妙な違い……。娘の五感は自然に向かって開かれており、私はそれを楽しみながら季節を感じていたものです。
けれど、彼女は耳を塞ぐようになってから、天気や草花の変化、鳥の声にも関心を示さなくなってしまいました。ちょっと尋ねてみても、日々周りで起きていることをほとんど覚えていないのです。そしてもちろん、耳を塞いでいるから、こちらが話しかけても答えない。振り返りもしない。
昨日の夜、話をしているうちになんだか切なくなって、つい気持ちをぶつけてしまいました。
今日の風はどんなふうに吹いていたか、冷たい風だったか暖かい風だったか、今、遊歩道のトチの樹の芽はどんなふうになっているか、庭のポットには、どんな色のビオラが咲いているのか、足もとにはどんな雑草がどんなふうに生えているのか、今朝はメジロがいっぱい群れて飛んできていたけれど……そういうことに、気がついている?
ヴィム・ベンダースの「ベルリン・天使の詩」という映画があります。天使は悲しみと絶望に打ちひしがれる人々の元に飛んでいき、ささやきかけます。それに よって希望が蘇る人もいますが、イヤフォンで耳を塞ぎながら自殺を考えている人にはささやきが届かず、彼はそのままビルから身を投げてしまいます。彼を助 けられなかった天使の叫びが印象的でした。
偏差値の高い学校に行って欲しいなんて、ちっとも思いません。それは正直言ってあまり意味のないことです。私はむしろ、身の回りの自然、そして宇宙がもたらしている有形無形のサインを全身で感じようとしないことが悲しいのです。感じる能力がないわけではありません。私は幼かった彼女が小さな体全部で自然を受け止めていた姿を知っているのですから。
音楽を聴かないで勉強をしろ、という話ではなかったので、娘は拍子抜けしたような顔をしていましたが、最後にこう言いました。「今度からヘッドフォンとイヤフォンはなるべく使わない」
そして、こうも言いました。「足下とか空も、ちょっと見てみる」
イヤなことばっかりだったり、悲しいことが起きてしまったときこそ、そういう人にこそ、草花や空を見てほしいのです。空気の温度、においを感じて欲しいのです。それらがすべて、あなたにもたらされる宇宙からのサインなのだから。
もともと聴き取る能力が備わっている人もいるけれど、だれでも理解する能力は持っています。
問題は、その人に「聞く気」があるかどうか。
ところで、私はこうやって、スピリチュアルな物事に関わるようになっていますが、実生活ではただの母親。思春期の娘のやることなすこと、気になるし、心配になります。
ここしばらく、なかなか娘に気持ちが伝わらず、娘もこちらに伝えようとはしないので、ちょっとぎくしゃくしていました。
なんでだろう、と自分のいらだちの原因をつらつら考えてみたのですが、ようやくひとつ原因らしきものを見つけました。
それは、彼女が今、耳を塞いでいるということ。
娘は、少し前、おばあちゃんからもらったお金で、 iPodを買いました。そして、それを学校にいるとき以外は片時も手放さず、音楽を聴いています。(今はLady GaGaにハマっている)
で、家に帰ってきたらきたで、今度は家のオーディオセットのヘッドフォンを使って集中して聴いている。音楽を聴くのはいいのです。まわりの雑音から離れて、それだけを聴いていたいのもわかります。
それにしても、どうしてずっと耳を塞いでいるんだろう。
娘は小さい頃から、とても周りの変化に敏感な子どもでした。木々のざわめき、鳥の声、空の色、雨粒の大きさや音の変化、みぞれが雪に変わるときの微妙な違い……。娘の五感は自然に向かって開かれており、私はそれを楽しみながら季節を感じていたものです。
けれど、彼女は耳を塞ぐようになってから、天気や草花の変化、鳥の声にも関心を示さなくなってしまいました。ちょっと尋ねてみても、日々周りで起きていることをほとんど覚えていないのです。そしてもちろん、耳を塞いでいるから、こちらが話しかけても答えない。振り返りもしない。
昨日の夜、話をしているうちになんだか切なくなって、つい気持ちをぶつけてしまいました。
今日の風はどんなふうに吹いていたか、冷たい風だったか暖かい風だったか、今、遊歩道のトチの樹の芽はどんなふうになっているか、庭のポットには、どんな色のビオラが咲いているのか、足もとにはどんな雑草がどんなふうに生えているのか、今朝はメジロがいっぱい群れて飛んできていたけれど……そういうことに、気がついている?
ヴィム・ベンダースの「ベルリン・天使の詩」という映画があります。天使は悲しみと絶望に打ちひしがれる人々の元に飛んでいき、ささやきかけます。それに よって希望が蘇る人もいますが、イヤフォンで耳を塞ぎながら自殺を考えている人にはささやきが届かず、彼はそのままビルから身を投げてしまいます。彼を助 けられなかった天使の叫びが印象的でした。
偏差値の高い学校に行って欲しいなんて、ちっとも思いません。それは正直言ってあまり意味のないことです。私はむしろ、身の回りの自然、そして宇宙がもたらしている有形無形のサインを全身で感じようとしないことが悲しいのです。感じる能力がないわけではありません。私は幼かった彼女が小さな体全部で自然を受け止めていた姿を知っているのですから。
音楽を聴かないで勉強をしろ、という話ではなかったので、娘は拍子抜けしたような顔をしていましたが、最後にこう言いました。「今度からヘッドフォンとイヤフォンはなるべく使わない」
そして、こうも言いました。「足下とか空も、ちょっと見てみる」
イヤなことばっかりだったり、悲しいことが起きてしまったときこそ、そういう人にこそ、草花や空を見てほしいのです。空気の温度、においを感じて欲しいのです。それらがすべて、あなたにもたらされる宇宙からのサインなのだから。