息子が希望する専門学校の保護者説明会に、親子三人で参加しました♪
今日のコーディネートはこちら。
通常は車が多い主人と私。
でもこの日は、電車の下見も兼ねて、三人一緒に電車に乗るのはなんと10年以上ぶり!
公共の場で親子三人で一緒に歩く・・・。という経験がほとんどない私達。
主人は、身長185センチの大きな体で人混みの中を、ズンズンと早く歩きます。反対に私は、155cm、おまけに人混みが苦手なのでゆっくりと着実に歩きます。息子は、音楽を聴きながらのトボトボ歩き。
この三人のペースの違いに多少の違和感をもちながらも、学校に着きました。
一日かけての長~い説明会&面談、息子の面接などで、三人ともぐったり!
今現在の大卒の就職率は、74%。
10、6万人がフリーターだといわれています。
大学へ入れば何とかなるの大学神話は崩壊しているそうです。
ただ、専門学校で勉強するには強い覚悟も必要なので、
息子が学校側の熱い説明にどう反応するのか、病み上がりの彼のメンタル面にも気を使いつつ・・・私もぐったりと疲れていました。
さて、帰り道。
週末の人混みの中、主人は相変わらず早足で、ズンズンズンズン先に行ってしまいます!
後ろに、私や息子がちゃんとついてきているかどうか、振り返りもしません。私は、疲れと重い資料とヒールで、息子の位置も確認してちゃんと一緒にいるかどうかで精いっぱい!
この時、私の中で、悲しみにも似た悲鳴が聞こえたのです。
例えて言えば、私の中のちっちゃな女の子が一生懸命、大人の歩みについていこうと頑張っているのに、最愛の人に振り向いてもらえない疎外感みたいなもの・・・。
私と息子二人だけならば、何も感じなかったのでしょう。
主人も一緒にいる、という関係性の中で私の中の【女性&少女性】の部分が、
“これは不当な扱いをうけているわ!”
と、叫びはじめてしまいました。
以前のわたしなら、“私はもう大人なのだから”とこの悲しみを封じ込めて完全に蓋を閉めているはずの微量の感情です。
やっと主人に追いついて乗った電車は、なんと路線が間違っていて。
私がそのことに気が付いて、二人をリードして所沢まで帰ってきたというおまけつきでした・・・。
夕食に寄ったレストランで、息子がトイレに立った時に、私は主人に言いました。
私 “私、すごく悲しいの。電車に乗るとき、何であんなに早く歩いて先に一人でとっとと行っちゃうの?2人の時は手をつないで私の荷物も持ってくれるじゃない?”
主人 “今日は、保護者説明会だろ?直美と2人の時とは、モードが違うんだよ!”
私 “え、なにそれ?私を女としてみていないで、息子のかーちゃんとしかみていないってこと?”
主人 “今日は子供のための一日だろ?俺も親父としてのモードしかだせないんだよ”
私 “そうなんだ・・・。男ってそんなもんなんだ”
そして、息子が目の前にいないときだけ、私に優しくキスをする主人。
きっと主人は、「親父の顔」と「おとこの顔」は一緒には持てないと思い込んでいるのでしょう。家族の中でも、父としての威厳をもちながら、尚且つ妻にとってセクシーな要素を醸し出す男性は日本人にとっては永遠のテーマなのかしら。
私達女性も、母性&母親としての役割を求められる時に、同時に自分の中の【女性、少女性、官能性】を表現するのは、難しいのだと思います。
ですが、【官能美】に一度目覚め始めると、
“モードを切り替える必要性”が自然と無くなります。
どんなシーン、どんなシチュエーション、どんな役割の時も、
自分の中の【女性性、少女性、母性、官能性、男性性】がバランス良く活性化しているので、逆にどれか一つだけの方が違和感を持ってしまうのですね。
保護者会、という母親としての役割を全うするときも、女性、少女性、官能性が自然と体全身からにじみでてくるので、不当な扱いには断固としてノー!と言えるし、逆に男性性をつかって家族をリードする自由さもあります。
今日はこの部分の自分だけ、という不自由さは男性としても女性としても、自然に自分の中から溢れ出す魅力を半減してしまいますものね♪
私の中の少女性は、“息子と一緒の時も、主人と仲良く手をつないで、リードして守ってもらいたい”んだなー・・・と、わかりました。無理だろうなーとか、受けとめてもらえないだろうなーという恐れもあるけど、主人にしっかり話してみよう♪
“お前のわがままは、20年たってもちっとも変ってないな。”
とよく言われますが、女性性解放・開花に“わがまま=われのままに生きる!”は必須です♪
本当にセクシャリティ―が高い人は、どこまでも自由です!
あらゆる“~ねば”を脱ぎ去り、
セクシーと慈愛、女性性と男性性という両極を自由に楽しみながら制限なく“私にとっての最高”を受け取り続ける人生をイキたくなった方は、ぜひこちらからその声をおまちしております。

