私たちの暮らしには、
都会という選択肢はなかった。

お金はなかったし、
静かな場所で
なんとかやっていくしかなかった。

カエルが大合唱し、
ひぐらしが鳴く、
田んぼに囲まれた、古い古民家。

はじめて庭を見たとき、
大家さんが笑いながら言った。

「牛、飼ってもいいよ」

冗談なのか本気なのか、
よくわからなかったけれど、
私たちは少し笑って、

そのただ広い庭で、見よう見まねで畝を立て、
野菜を育てた。

宴会ができるほどの大きな畳の部屋。
家は高台に建っていて、
長い長い縁側に座れば、
畑や田んぼ、そして大きな川が、
遠くまで一望できた。

ときどき、家の真下を電車が通り抜ける音が、
風に乗って、微かに届いた。

その音が消えるころ、古い浴室の隅で、
手桶を使って、
長い髪を何度も流していた。

不自由だったと思う。
だけど、目の前にあるすべてが、
宝物のように愛しかった。

小さな新聞社に勤めていた彼の書いた、
豆粒のような記事を、
彼には内緒で、
何度も読み返しては、
ストラップブックに丁寧に貼りつけた。

そんなことをしているなんて、
彼はきっと知らなかったと思う。

私は、あの暮らしの中で、
伝えきれないまま、そっと、彼を好きでいた。

ある夜、都会育ちで、
くぬぎの木も知らない彼が、
「カブトムシの仕掛けを作ろうか」と言い出した。

翌日、身重の私を明け方に連れ出して、
空っぽのままぶら下がる、
寂し気なパンストの仕掛けを
ふたりで見て、笑った。

今でもあの場所に、あの仕掛けはあるのだろうか。


春も夏も、
景色はただただ、
涙が出るほど美しかった。

毎朝、彼は仕事へ向かうために
長い橋を渡って駅へ向かう。
その途中、かならず
一度だけ、こちらを振り返った。

私は、よく見えるように、
赤いクッションを振った。
あの頃の私なりの「いってらっしゃい」だった。

何もなかったけれど、
ふたりで過ごしたあの毎日のなかに、
たしかにあったと思う。
幸せの、かけら。


私は、あの時の精一杯で、
心から幸せだったと思う。