母の事 | sayunami日記

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おはこんにちは。こんばんはかな?


今回は私の母の事書こうと思います。


このblogを書いてる今、母は必死に頑張ってます。


最期を迎えた時このblogは書けなくなりそうなので今書こうと思いました。


母の病については後々ということにして今回は母との思い出を書こうと思います。


1番幼い頃の思い出は私が保育園に行ってた頃家から保育園まで徒歩で25分ぐらいかけて通ってました。


母のパート先はその中間地点にあってそこを行ったり来たり大変だったと思います。


保育園に迎えに来てもらうと更に先にあるスーパーで夕食の買い物して帰りました。


その時職場で貰ったお菓子とか飴とか食べずに取っといて私にくれました。


時々暖かい缶コーヒーも買ってくれました。

ミルクたっぷりの甘いコーヒー美味しかった。


歩きながら保育園での出来事を話したりちょっとしたゲームをしたり。


捨ててある空き缶がコーヒーなら母の得点、ジュースなら私の得点で家に着くまでにどちらが多く見つけられるかというゲーム。


楽しかったなぁ。


小学生になると給食がない日に母もお昼に帰ってくるのにお弁当を作って置いてくれました。


母は正直料理は苦手な方でレパートリーと言えば煮物とか田舎料理でした。


私の苦手なピーマンもしいたけもフライパンでただ焼いて醤油かけるだけ。


子供の頃は不味くて嫌いでした。

今は1番美味しく食べれる料理法?(笑)だと思ってます(笑)


でも母なりに一生懸命作ってくれて、母のお弁当と言えば卵焼きにウインナーにマルシンハンバーグがミートボールが主流でした。


今でもそのお弁当が大好きで自分で作る時も同じ物を入れてます。


あの頃は冷食も今のようになかったから大変だったと思います。


父にめちゃくちゃ叱られて泣いてると慰めてくれたのも母でした。


私のせいで母が父に怒られてる時もありました。


父は休みの日とかは子供を連れてどっかにふらっと行くのが好きな人でしたが普段の世話や家の事は母に任せっきりで、今で言うワンオペのようでした。


入学式も卒業式も運動会も授業参観もいつも母でした。

授業参観は来れない時もありましたが大事な時はいつもちゃんと来てくれました。


弟の学校もちゃんと行ってました。


私が社会人になってから友達と遊びにいって遅くなると遅くなると言ってても寝ないでずっと待ってくれてました。


寝てればいいのにと言ったら心配で眠れないと。


で、ある程度の時間になると何処にいるの?早く帰って来なさいと必ずと言っていいほど電話が掛かってきました。


当時は親の心子知らずでうるさいと思ってました。


父がいる間は中々母が自由になる時間もありませんでした。


今なら色んなハラスメントがあったと思います。


私が車の免許を取って1年ぐらいで父が他界してそれから母の時間が始まりました。


まだ弟は学生でしたが男の子だし母親と姉と出掛けるぐらいなら家でゲームしてるの方がいいと言うので2人でよく出掛けました。


車で3時間ぐらいかけて福島の郡山まで行ってリサイクルショップ見て帰ったり、郡山から那須、那須塩原、宇都宮経由で帰ったり、小名浜のお魚市場のいわき・ら・ら・ミュウに行ったりイオンモールも行きました。


福島はあぶくま洞にも何度も行ったな。

足が悪い母は洞窟の中には入らず私も入らないでお土産屋さんでお土産屋さんでお土産だけ買って小名浜の方回って帰ったり。


栃木は日光や宇都宮、宇都宮ではよく餃子食べた。NHKの公開放送に当たって何度か栃木の会場にも見に行きました。


佐野のイオンモールにも行って、1番の思い出は足利フラワーパークのイルミネーション。


足が悪くなっても車椅子で行った。歩かないから寒くてあまり長くはいられなかったけど。


千葉は千葉ニュータウンのイオンモールとか柏のセブンパーク柏とか特に竹島宏くんの新曲キャンペーンにはよく行きました。


イオンモールは1回きりとかも入れると何箇所になるんだろう(笑)


成田のイオンモールもよく行きました。

近くの成田山新勝寺に何年か続けて初詣に行ってた時期もありました。


みゆきさんのCDや本等をリサイクルショップで探してる時期も色んな所に一緒に行って買ってもらいました(笑)


日帰り温泉にハマった時期はほぼ毎週末行ってました。県内で行くとこが思いつかないと県外まで。


遠出する時は昼食を取る時間が勿体なくて(早起きが親子で苦手で早朝に家を出るのは不可能(笑))コンビニでおにぎり🍙やサンドイッチ🥪を買って運転しながら食べたりオヤツもたくさん買って行きました。


この頃が1番母にとっても幸せで楽しい時期だったのではと思ってます。


お金も時間も自分の好きなように使えたし。


私も幸せな時間でした。

喧嘩もたくさんしたけど。


母は辛い事もたくさんありました。

ここには詳しくは書けないけど夫婦仲も悪い時もありました。


母が本気で父との離婚を考えてた時もあったし私も離婚してもいいと思ってた時もありました。そのくらい辛い事もありました。


母は幼い頃から苦労してきた人でした。

叔母や母から聞いた話ですが母の父(私の祖父)は母が5歳の頃他界して母子家庭の農家で育ちました。


生活は農家だったので食べる事には苦労しなかったらしいですがやっぱり貧しくて家の手伝いばかりで学校にも中々行けなかったそうです。


色々な家の事情で母が1番手伝ってたそうです。


中学校を卒業すると東京に出稼ぎに行き数年経ったら群馬の親戚の家にも住み込みで働きに言ってたそうです。


でもそれなりに楽しみもあったようで東京で働いてた地域がテレビに出たり耳にしたりするととても懐かしんでました。

荒川区尾久町?で最寄り駅は田端らしい。


東京に行った時この田端駅を通過するといつも思い出して懐かしいって言ってました。


実家に戻って実家から仕事に行ってた事もあったそうです。


その頃の話もたくさんしてくれました。

その頃によく夕飯を食べて帰ったという食堂が今でも残ってて弟も一緒に3人でもよく行きました。


そのうちまた弟と行こうかな。


あと、いきなりだけど中島みゆきさんにも感謝です。


母はずっと家族で旅行する事が夢でしたが叶うことなく父がいなくなって予算的な事やら色んな事を考えると中々3人でも行けなかったです。


そんな時郡山まで2回ぐらい行った時みゆきさんのコンサートが郡山で開催される事を知りました。2005年のツアー2箇所目でした。


最初は車で2人で行く予定でチケットを申し込んで無事当選。


ですがよくよく考えたら1月末の福島の山の方、雪の心配が出てきました。


雪道は慣れてないし帰りは夜中だし危険と言うことで水戸から水郡線に乗って電車で行く事にしました。


勿論弟1人置いていく訳にはいかないので3人で。弟はホテルで留守番。


初めて3人でのホテルにお泊まりでした。

お風呂は部屋の小さなお風呂で温泉でもないし夕飯はホテル近くのラーメン屋でラーメンだし(今思うと一蘭だったような気がする)決して豪華な旅行ではなかったけど母も私も初めてのみゆきさんのコンサート見て3人でホテルにお泊まりで少しは夢が叶ったと嬉しそうでした。


みゆきさんがあの時郡山でコンサートやってくれなかったら叶わなかったかもしれません。


正直母はさゆりさんの事があまり好きではなかったようでした。


でも娘が行くなら行きたいとコンサートにもよく付いてきました。


あまり知らない道を夜運転するのは不安で怖かったのですが隣に母がいると安心したので色々な会場にも行けました。


ちゃっかりプレコーナーにも参加したりして結局好きだったのかも知れません。


コンサート以外にもNHKの公録とかも行きました。


1人は心細いけど母がいたから行けたと思います。


足が悪くなって車椅子になったら中々遠出はしなくなりました。


母も疲れちゃうようで。


水戸でさゆりさんや母の大ファンの舟木一夫さんのコンサートがあったら連れてってあげようと思ってましたがコロナのせいで・・・。


精神的な病が出てからは耳も遠いせいか中々話が通じず昔のような会話は出来なくなりました。


でも好きな食べ物を買ってきたりして食べる?と聞くとめちゃ嬉しそうな笑顔でうんと言いました。


あの笑顔と声はずっと忘れません。


母の介護、最近正直辛い事もありました。

母が体調を崩す事が増え自分の時間が無くなり休みの日もゆっくり出来ずシンドいと思っててケアマネに相談しようと思ってたとこでした。


弟にも手伝って貰ってましたが弟も大変だと言ってて。


最後の私の願いは母が1分でも1秒でも長く生きてくれて最期は暖かい布団の上で迎える事です。


勿論奇跡が起きて元気になってくれるに超したことはないですが。


私の叔父(母の実兄)は母の実家の近くの川に転落して亡くなってるのであんな冷たい水の中で一生を終わらすのだけは避けたいとその時誓いました。


苦しまずに穏やかに。

それが一番の願いです。


まだ終わってないからありがとうとは言わない。



これからも不安な時シンドい時Twitterに色々呟くと思いますがどうぞお付き合いくださいませ。


よろしくお願いします🙏