一昨年に放映されたドラマ「不適切にもほどかある!」。
(別ブログでも言及しております)
https://ameblo.mom/technemakra/entry-12838889024.html
1986年から現代にタイムスリップしてきたおじさんが引き起こすなんやかんやを描いてとても面白い作品でした。
私はその1986年をリアタイで体験した世代なのでなんとも懐かしく、わずか数十年で文化や風俗がいかに変わってしまうかを改めて痛感したわけです。
阿部サダヲ演じる主人公は当時としては許容範囲というか当たり前の価値観や世界観に基づいて振る舞うのですが、現代ではそれがいたるところで「不適切」すなわちコンプライアンス違反となってしまいます。
環境が変われば規範も変わりセーフもアウトになってしまう。時代だけではなくて国ごとでも異なり、自治体とかなんなら学校ごとでもローカルルールが違うなんてことも珍しくありません。
自分のルールが特定の共同体のものを無自覚に内面化したものである場合、違う共同体に赴いた際には互いに違背するルールが顕在化し紛争になることも多いかと思われます。
私がサラリーマン1年目だった頃、上司に指示されて何か運んでいたときに、横から「何しとるんや?」と声をかけてきたおじさんがいたので、「荷物運んでます」と答えたら「ああそうか」と言ってそのおじさんは去って行ったのですが、
そのすぐ後に、怖い顔をした別のおじさんがやってきて、
「お前さっき社長に挨拶せんかったやろ!えらい怒ったはったで!」と言うのです。
どっかで見たことあると思ったら社長だったのでした。
とはいえ、その後すぐ、
「最初に質問されたから答えたわけで答えたらすぐいなくなったから挨拶しようないやろ、そもそも自分から挨拶せーや…」
などとえらく不遜なことを考えるありさまで、結局会社という共同体のローカルルールに馴染めず2年で退職してしまうことになります。
そういえば、入社式で副社長が新入社員に向けてありがたいお話をしてくれたときにも
「偉そうなおっさんやな…あ、偉いんか!」
とまあ不謹慎な脳内発話をしたりしてまして、中身はとても不謹慎な人間だったりします。
こうなったのには事情があり、それこそ「不適切にもほどがある」で描かれていた80年代、中学2年の頃の同級生が、ある時、
人間はとても自由なんやで!心の中で何を考えていても誰にもわからへんし、目の前の人の悪口を心の中でいくら言っても大丈夫なんや、なんてすばらしいんや!
と熱く語るのを聞き、なるほど!と膝を叩き、不謹慎中学生が爆誕し、そのまま今に至るわけです。
この脳内不謹慎中学生が役に立つこともありまして、既存の価値観やルールを宙ぶらりんにしてhave toの外にでるのを助けてくれて、いわゆる「判断停止」と言うやつを可能にしてくれるわけです。
例えば、上司のパワハラで鬱になっている人なんかに「ひどいやつですね!これから一緒に殴りに行きましょうか?」と言うと、パワハラ上司を殴りに行くと言う通常なら思いつかない可能世界が提示されることでそれまで囚われていた臨場感や情動から離れて一瞬抽象度が上がり状況を俯瞰することができるようになったりします。
上位者に対する攻撃というのは組織の中では御法度でありますが、会社というのは社会集団全体の集合の一要素に過ぎず、そこでのルールはたかだかローカルルールでしかありません。
会社に勤めていると会社が世界全体のように思い込んでしまうのでそのことを忘れがちになるので、上司を殴りに行こう、という言葉はそのことを気づかせるためのRゆらぎになりうるわけです。
ここには書くのは憚られるのですがもっと不謹慎な発言で大きなスコトーマが外れたことも最近ありました。
王様が裸であることを指摘したのは不謹慎な子供でした。シェークスピアの作品なんかでもよく道化が王様のそばにいて不謹慎なことを言ったりするのも王権によって維持されている現状の外を示してくれているのかもなどと考えてしまいます。
「不適切にもほどがある」でも、主人公の巻き起こすトラブルによってコンプライアンスにしばられた現代社会が相対化される場面が数多くあり優れた批評性を発揮していました。
おもしろかったのは同作でコンプライアンス担当者を演じていた山本耕史が「地面師たち」では、地面師にまんまと騙されて不動産売買を強行する部長の役を演じているのですが、コンプライアンスに振り回されている奴はクソだ、と豪語していたことで、あらためてドラマというのは多様な可能世界が体験できる媒体だなと思いました。
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