こんばんわ![]()
気になって気になっていた排水枡(はいすいます)の掃除をしました。
毎年梅雨明けにしていたのに、確か4年サボっています。
まぁ、開けてみたらすごいことになってまして、
粘着物がバケツに2杯分ビッシリ![]()
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野菜くずを畑に埋めて堆肥にしてるんですけど、
同じように埋めたけど堆肥になるかしらん![]()
お彼岸なので小林正観さんのこんなお話を。
親鸞は1173年に生まれ、
1262年に死んでいるので、89年の生涯を生きました。
当時の鎌倉初期の寿命としては、ものすごい長命ということになります。
34歳のときに、旧仏教の人たちから疎まれ、
讒訴(ざんそ)によって師匠の法然は土佐に、
親鸞は越後に流されることになりました。
この越後にいるときに、新潟の豪族の娘である恵信尼と結婚し、
結婚生活を始めました。
鎌倉期までの僧侶は、公然と結婚をすることを認めていませんでした。
実際に夫婦生活を送る者はいたのですが、
公然と夫婦となり、妻として恵信尼を迎えたというのは、
僧侶の中で親鸞が初めてのことだったのです。
越後にいるときの親鸞は、「不僧不俗」つまり、
僧侶でもないし俗人でもないという、
どちらにも偏らぬ普通の生活を送っていました。
赦免して許されたのち、京都に戻るまで、
ほとんど関東で布教活動をして過ごしました。
親鸞の死後、末娘の覚信尼が、東山の大谷に親鸞の廟を建てたのです。
そこの地名が大谷というので、のちに姓を賜ったときに、
大谷という姓をもらいました。
ですから、親鸞の子孫は大谷の名前を持っています。
大きな谷のことを、中国では「龍の谷」と書きました。
ですから「龍谷」というのは、「大きな谷」という意味です。
龍谷大学は「大谷家の大学」という意味でもあります。
もう一つ龍谷の意味は、中国の北京における「龍谷思想」というものです。
北に山、東に川、西に大路、大きな道、南に沃野(よくや)、
つまり肥沃な土地が開けている。
この状況を、「往生の地」として、「龍谷」と中国では呼んだのです。
北京はそういう地形でした。
京都が1000年もの間都であり続けたのは、
実はこの地形によるものが大きいのです。
北に山、東に鴨川、西に西大路、南に巨椋池(おぐらいけ)という沃野、
広い肥沃な土地を持っていました。
京都は自然の龍谷地形だったのです。
よくいろいろな意味で、
いろいろな場面で「小京都」という呼び方をしますが、
「京都」と呼ぶ以上は、たとえ小京都であっても、
北に山、東に川、西に大路、南に沃野が広がっていなければなりません。
ですから、厳密な意味では、「小京都」というのは、
そういう地形に囲まれていなければならないのですが、
まあ現在はそんなことはあまり気にしません。
大谷の名前を賜った、この大谷家の人たちは、
大谷という苗字を現在にも伝えています。
ですから、本願寺の関係者に、今も「大谷」という名の方が多いのです。
この親鸞の弟子に、唯円という人がいました。
唯円が書いたのが、『歎異抄』というものです。
親鸞の死後、親鸞の教えが正しく伝わらずに、
誤解を生むようなことがありました。
弟子の唯円はそれを悲しく思ったのでしょう、
親鸞の説いた意義、本質的な意義というものを解き明かそうとしました。
それが『歎異抄』というものです。
その中に書いてあることは、有名な「悪人正機説」です。
その代表的なことばがこれです。
「善人なをもて往生をとぐ いわんや悪人をや」
「善人は極楽往生をする、
ましてや悪人はもっと心穏やかな大往生をするのだ」
という意味です。
このことばは、多くの人に誤解をもたらしました。
「悪ければ悪いほど、極楽往生ができるのだ」
という意味に解釈されたのです。
このことばに触発された農民たちは、
守護職富樫氏を襲い、死に至らしめました。
その結果農民たちは、90年にわたって加賀を支配することになります。
「加賀の一向一揆」と呼ばれるものです。
この一向一揆を収束させたのは、織田信長でした。
信長が平定するまで、加賀の国は
支配者のいない農民による自治共和国という、
日本史上大変珍しい形態で存在しました。
その膨大なるエネルギーの源になったのが、
この「悪人正機説」です。
「支配者の屋敷を襲い、食料や武器を奪うことをすればするほど、
われわれは救われるのだ」という考え方でした。
親鸞の子孫である、本願寺第八世の蓮如は、
この『歎異抄』を禁書としました。
「この内容は誤解される。誤解されたら非常に危険である」と思い、
読んではいけない本としたのです。
禁書の時代は長く続きましたが、
明治以降それが解禁され、広く多くの人に読まれることになりました。
「善人なをもて往生をとぐ いわんや悪人をや」
ということばの本当の意味はどういうものであったのか。
親鸞の弟子が何人か聞いたのだそうです。
「お師匠様、この『善人なをもて いわんや悪人をや』は、
お師匠様が間違えたのですね。
善人と悪人の位置を取り違えて言ったのですよね」
そのときに親鸞は、可可と笑って、こう答えたのだそうです。
「まだまだ未熟だなぁ」と。
そのところははっきりしています。
親鸞は間違えて言ったのではありませんでした。
確信を持って、このことばを言ったのです。
「善人なをもて往生をとぐ いわんや悪人をや」
このことばの意味を読み解くにあたっては、
親鸞の日常的な言動を解析しなければなりません。
親鸞は、多くの人に招待され、
食事に招かれたりすることも多かったのですが、
そのときに弟子の何十人かついていくということがたびたびありました。
招待した人たちは弟子を見て、口を揃えてこう言いました。
「親鸞様、お上人様、あなたの素晴らしさももとよりですが、
お弟子さんの1人ひとりがとても素晴らしい人ですね」。
そこで親鸞は必ずこう言ったというのです。
「弟子?私には弟子はいない。この者たちはすべて私の師匠である」
親鸞はとても謙虚な人であった。
弟子を「弟子」という呼び方や捉え方をせず、
「自分にとっての師匠である」という捉え方をしていたのです。
この『歎異抄』の「悪人正機説」、
「善人なをもて往生をとぐ いわんや悪人をや」を、
次のように解釈した人がいました。
「善人をやってくださる方、
善人の役割をやるためにこの世に生まれてきてくださった方は、
極楽往生ができる。
しかし、悪人の役割を担ってやってきてくださった方は、
もっと安らかな大往生を迎えることができる」
加賀の一向一揆の人たちは、このことば、
このような解釈を指針としたのではないかと思います。
歴史の中でそのような解釈をされたらしいというところまではよいのですが、
親鸞がそういう意味で使ったかどうかというのは、
また別ものだと思います。
親鸞が言った「悪人正機説」は、こういうものではなかったでしょうか。
「自分が善人だと思っている人は、安らかな死、
極楽往生を迎えることができる。
自分が悪人で、『どうしようもないやつだ』『ろくでもないやつだ』
『神の前に、仏の前に恥ずかしくて現れることができない』
『私なんてろくでもない人間である』と思っている人ほど、
極楽大往生ができる」
自分が善人だと思っている人。
彼らは、それなりに正しい生き方をしているのかもしれません。
しかし、自分が悪人でどうしようもない奴だと思っている人ほど、
実は神仏にもっと近いのかもしれないのです。
親鸞は「謙虚さ」というフィルターを通して、
人間をそういうふうに表現したかったのではないでしょうか。
小林正観
善人が助かるのは分かります。
でも、悪人はなおさら救われる……?
未だ以てわかりませんの。
明日は秋分の日、お彼岸の中日ですね。
善人なを(お)もて往生をとぐ
いわんや悪人をや
来年の彼岸花を見るころには、
もう少し理解できるようになっていたいと思います。
では、また明日^^



