こころの宝になる「ものの見方」 | ふーちゃんのブログ

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こんばんわひらめき
 
 
 
 
 
今日は秋分の日でお彼岸の中日。
さとうみつろうさん情報により、
10時03分の秋分点をお墓で迎えてみました。
 

 
 
 
 
 
小林正観さんの海という名の「幸せ」の」中に泳ぐのお話から。
 
 
白は、白独自で存在しているより、
黒の中にあることで「黒さ」を増すということになるとは、
デザイナーである森英恵さんの言葉。
 
 
 
仮に、白を「幸」、黒を「不幸」と置き換えたとしましょう。
そうすると、「幸」の中の「不幸」はますます〝不幸度〟を増し、
一方、「不幸」の中の「幸」はますます〝幸福度〟を増す、
ということになるのです。
 
 
 
 
私たちは、目の前に起きる現象を、
いつも「幸か不幸か」、
あるいは「幸運か不運」に分けるよう、訓練されてきました。
 
 
 
一般的に言う「幸」や「幸運」は、
大学入試や就職試験がうまくいったなど、
自分の思いどおりの結果が得られたときに使う言葉です。
 
 
 
逆に「不幸」や「不運」は、
病気になるとか事故に遭うとか、
会社が倒産するとか、自分の平和、平穏を脅かすものを言うのでしょう。
 
 
 
 
しかし、ここでちょっと考えてみます。
 
 
 
 
例えば、生れた国土が毎日気温30℃だったとしましょう。
生れてこの方、29℃にもなったことがなく、
31℃にもなったこともなく、湿度もずっと50%だった。
そういう国を想定してみるのです。
 
 
 
その国の国民は、誰か一人でも、
「今日は暑いですね」とか「今日は涼しいですね」と言うでしょうか。
 
答えはたぶん、No。
 
 
誰も「暑い」「寒い」を口にしないだけでなく、
その国の概念として「暑い」「寒い」という言葉自体が、
存在しなかったに違いありません。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
海に魚が泳いでいます。
この魚は、生まれてから一度も海の外に出たことがありません。
「海というものをよく話に聞くが、一度も見たことがない。
海を見てみたい」と願い、念じたとします。
 
 
 
その魚が泳いでいる岸辺に、人が座り、竿を出していました。
魚の「念」を感じとった人は、
釣り針のついた糸を魚の前に垂らすのです。
魚は、「このエサに食いついてみれば、きっと〝海〟が見られる」と、
パクッとかみつきます。
 
 
 
それを感じて、人は糸を引き、
魚は海中から生まれて初めて外に出ました。
そして、外から確かに
〝海〟というものを見ることができました。
しかし、苦しい。
 
 
 
「もう十分に〝海〟の広さ、大きさがわかりました。
もう〝海〟を見る必要はないので、海に戻してください」
と魚は人に頼みます。
 
 
 
人はその願いを聞き入れ、、魚を海に戻してあげました。
この話の中の「魚」が「私」です。
「海」は「幸せ」というものの本質です。
 
 
 
私たちは「海という名の〝幸せ〟の中に泳ぐ魚」であるらしいのです。
願いや望みや思いが叶うことなどではなく、
生きていること自体が、何もないことが、
何も起きず、平穏無事であることが、「幸せ」の本質なのです。
 
 
 
「海を見てみたい」と念じられたので
釣り糸を垂らしたのは「神さま」です。
 
 
 
釣り上げられて海を出て、初めて海を見たものの、
海を出ているので苦しい、呼吸ができない、という状態が、
もしかしたら「病気」や「事故」なのかもしれません。
 
 
 
 
「幸せの本質である海」を認識できず、
その「幸せの海」の中にいながら、
「幸せを見たい」「海を見たい」と叫んでいると、
確かに〝神〟はその願いを叶えてはくれるのですが、
「釣り上げられた魚」は、苦しくてつらいのです。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
平和・平穏で、穏やかに静かに、淡々と流れていく「日常」こそが、
「幸せ」の本質であることに気づきます。
何かを思いどおりにすることや、
願いや望みを叶えることが「幸せ」なのではありません。
 
 
 
「幸せ」とは、平和・平穏に過ぎていく日常そのものであるらしい。
がんになったことは、幸せの本質を教えに来てくださった、
素晴らしい使者なのだと思えます。
 
 
 
では、また明日^^