大河の一滴 | ふーちゃんのブログ

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こんばんわ星空
 
 
 
 
「私はこれまでに2度、自殺を考えたことがある」。
五木寛之著『大河の一滴』の冒頭はこの一文から始まっています。
 
川端康成著『雪国』は、
「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。」、
カミュ著『異邦人』は、
「きょう、ママンが死んだ。」、
ヘミングウェイ著『老人と海』は、
「かれは年をとっていた。」で始まっています。
名著と評される本は、どれも冒頭の一文が非常識で卓越していて、
忘れたくても忘れられない1冊となるのです。
 
 
 
 
 

 
 
 
 
五木寛之さんは、
自分が今では、一度ならず二度までもそんな経験をもったことを、
とても良かったと思うことさえあるとおっしゃっています。
 
 
 
人間はだれでも本当は死と隣りあわせで生きている。
自殺、などというものも、特別に異常なことではなく、
手をのばせばすぐにとどくところにある世界なのではあるまいか。
ひょいと気軽に道路の白線をまたぐように、
人は日常生活を投げだすこともありえないことではない。
ああ、もう面倒くさい、と、特別な理由もなく死に向かって歩み出すこともあるだろう。
私たちはいつもすれすれのところできわどく生きているのだ。
 
そう考えてみると、この<生きている>ということもまた、
なかなか大変なことなのだなぁ、と感じられてくる。
老いを意識する年齢になればなおさらだ。  (P.14)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
私たちは「泣きながら」この世に生まれてきた。
私たちは死ぬときは、ただひとりで逝く。
恋人や、家族や、親友がいたとしても、一緒に死ぬわけではない。
人はささえあって生きるものだが、最後は結局ひとりで死ぬのだ。
 
 
どんなに愛と善意に包まれて看とられようとも、
死とは自己の責任で向きあわなければならないのである。
 
 
だから、親は子に期待してはいけない。
子も親に期待すべきではない。
人を愛しても、それはお返しを期待することではない。
愛も、思いやりも、ボランティアも、一方的にこちらの勝手でやることではないか。
そう覚悟したときに、なにかが生まれる。
 
なにも期待していないときこそ、思いがけず他人から注がれる優しさや、
小さな思いやりが<干天の慈雨>として感じられるのだ。
そこにわきあがってくる感情こそ、本当の感謝というものだろう。 (P.24~25)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
私たちはふたたび、人間はちっぽけな存在である、と考え直してみたい。
だが、それがどれほど小さくとも、草の葉の上の一滴の露にも天地の生命は宿る。
生命という言いかたが大げさなら、宇宙の呼吸と言いかえてもいい。
 
 
空から降った雨水は樹々の葉に注ぎ、
一滴の露は森の湿った地面に落ちて吸い込まれる。
そして地下の水脈は地上に出て小さな流れをつくる。
やがて渓流は川となり、平野を抜けて大河に合流する。
 
 
その流れに身をあずけて海へと注ぐ大河の水の一滴が私たちの命だ。
濁った水も、汚染された水も、すべての水を受け入れて海は広がる。
やがて太陽の光に熱せられた海水は蒸発して空の雲となり、
ふたたび雨水となって地上に注ぐ。 (P.27~28)
 
 
 
 
8月6日の今日は、広島に原爆が投下された日。
そしてわが息子の誕生日でございます。
コロナ禍のなかでも、
原爆が投下されたときのような悲惨な状況もあったのだということも知って、
自分の「いま」を大切にして生きていってほしいと思います。
タクちゃん、お誕生日おめでとう。
 
 
 
では、また明日^^
 
 
 
合掌
 
 
 
 

 

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「大河の一滴」とは人のこと。

「それは小さな一滴の水の粒にすぎないが、

大きな水の流れをかたちづくる一滴であり、

永遠の時間に向って動いていくリズムの一部」。

人生に疲れ、あるいは迷っている人たちは手に取って読んで欲しい1冊です。