あの頃のわし①無価値と義務感
まずね、ベースとしてわたしは無価値感を持っていました。
自分の中で当たり前過ぎて自覚はありませんでした。
が、
例えば人の役に立ちたい思いが強くて、自分が我慢しても人に尽くすことが当たり前になってたり、
尊敬してる人の自分への反応や態度で自分が肯定できたり、否定したりよくしてました。
加えてそこにややこしいのですが、
目に見えない世界との出逢いと、
祈りやエネルギーという、自分が行うことで変化を感じる体験を重ねる中で、
“この自然にできることをしたい”
と想いが強くなりました。
だがしかし、
祈る
感謝する
という行為を真摯に行う時もあれば、
“役に立ったり、この尊い自然と共鳴できる自分には価値があるから、自分の価値を感じたい”
と、その時しっかり自覚していなくても、それが動機で行動することもありました。
それはエゴだったので、
ほしい というエネルギーと引き合い、
祈るどころか 同調したエネルギー体と引き合って逆に危ない時もありました。(憑かれたり)。
体験してみてその都度振り返って
迷ったり考えたり相談したりしてやっていましたが、
自分では、祈りやそれにまつわる行動に対して、目の前に見えてる(感じている)ものがあり、このままいくと予想できる事があり、
何か自分が自然やカミに対して出来ていることもある、と思う体験もあったので、
次第に
やらなきゃ。
という義務感で気が枯れてるのに動くことも多々出てきました。
仕事で、無力感や役に立てない罪悪感を感じたり、
これからに不安を感じたりすることも相まって
それらと、無価値も埋めようと、動いていたことも多かったのでした。
不器用でひとりよがりダネッ![]()
(愛を持って軽く突っ込んでみた)
ただね、霊的なことは体験を重ねるほど感度が増してきて、チャネリング能力やエネルギーアイテムを使う等出来る事も増えてきた一方で、
人間として自分の心にずっと在る、この無価値や罪悪感や無力感との乖離が強くなってきたのです。
本来は心に在るものを統合して、一歩ずつ上げていかなきゃいけない精神性の部分を、
「これが好きだから❗」
とそれ(直感や霊性)ばっかり上げて、
やらなきゃいけない心の傷と向き合うことや
身体を鍛えて器を創ることをやらないで突っ走っちゃったんですね。
これ非常に危険なことで、
例えるなら、モチを一部だけぐにょーーーんと伸ばすみたいな。
伸びてない部分との距離がめっちゃ出来ちゃって、
危ない!千切れちゃう!(
)
って状態だったと思います。
だからスピリチュアルなことで動く時、すっごい純粋な愛の体験もすれば、
危ない体験もしていたのだと振り返ります。
だから突っ走る前にやるべきだったのは、
心にある無価値に気付いて、
愛して満たしてやることだった
のでした。
続く
