今回の考察は日本の古代史に一石を投じるものになると確信します、『松野連姫氏系図』の存在や文献上の記録から中国の呉(春秋)国の皇子、忌(いむ)の末裔が日本へと入っている事を知る人は多いでしょう。

日本語にも「漢字の呉音」、「呉服(キモノ)」など呉に由来する名称が多く使われている事からも間接的に呉の文化が浸透している事が分かります、呉という国は古公亶父の長男「太伯」と次男の「虞仲」が興した国と知られていますが、この二人がシャーキヤと呼ばれた釈迦族で5人兄弟の内の二人である事はほとんど知られていないでしょう。
※釈迦族について研究をした成果でもあります。
釈迦族の系図情報
太伯と虞仲を含む5人の兄弟は古代インド(天竺)のカシュヤパ仙を頼ったと考えられます、カシュヤパ仙の先祖は4600年前に遡る「天竺族」と呼ばれる一族で日本の「知恵の樹」から派生した部族と考えています。(※同じく日本出身の磐一族も同時期に登場する事や、異民族には動物名が付けられるので生命の樹と同族と考えられる事が要因としてあえります。)
この釈迦族に由来する呉の国が紀元前473年に滅び、日本へと帰った地は地名に残されていると考えられます、「部」という漢字は象形文字の解釈から「村を分ける」と意味があると考えます、中国には忌の治める忌(村or国)があったと考えられ、呉王夫差の息子、忌(いむ、※村名と名乗りが一緒)が日本に作った村は「忌村を分けて作った村」という意味で「忌部」と名付けたと考えます。
忌部とは氏族の名として知られていますが、それは正しいものの複雑な経緯をもって忌部氏とは生まれている事を突き止めましたので今回のお報せするものとなった次第です。
日本へと最初に土着した地は島根県松江市忌部(西忌部町+東忌部町)であったと考えられます、私は古代の日本では山名に支配域を残すと提唱していますが、中国からの帰国者ですので、初めは呉の国の忌村を分けて作った領域を「忌部村(国)」とした事が日本における起源と推測するものです。
松江市忌部
そして皇子の忌が隠居後に「大の宮」(※宮号)と名乗りを変えた為、子孫は部族名を「大」に変えていると考えられ、それは松江市の忌部に残る「忌部神社」の古名が「大宮神社」であった事から推測されます、古代の神社における宮号とは支配者の隠居の号と考えられ、子孫はその後、隠居号を部族名として使う事例が他でも見られる為にそう推測するものです。
※大宮神社(死後の神の社)→大の宮(生前の宮号)→大一族
その検証をする為に呉音である「山(せん)」と読ませる山を国土地理院の情報からピックアップしてプロットした図『山(せん)の分布図』『山(せん)の一覧』をご覧下さい。(※呉音に由来する山名は呉の国の人達による名付けと考えられる)
山(せん)の一覧
見事に「大山(だいせん)」を中心として分布している様子を見る事が出来ます。(※大山は大一族の支配域とした山)
次にその後の大一族の支配域は「大山・大峰・大岳・大岩・大森、※複姓を含む」という山名に残されていると推測しますので、それを調査しプロットした図『大一族の分布』を見て下さい、これは紀元前の分布を表すものですので特に「大森・大岩」については複号と考えられ縄文系の「森一族・磐(岩)一族」の存在を示すものと認識しています。
大一族の分布
話を山(せん)の分布に戻しますが、奈良県・広島県(宮島)・島根県(出雲大社、※『出雲大社神郷図』を参照のこと)の「弥山(みせん)」は紀元前1世紀頃の山名と考えられ古代インド(天竺)から帰ってきた釈迦族に由来する山名と今は推測しています。
※太伯系では無い可能性があるが、出雲大社の鶴山と亀山は太伯系ではないかと考えています。

最古の出雲大社絵図
よって忌部とは最初は村名(国名)及び村長の忌の名乗りであったものが、後に氏族名として再興されたものであったと考えられます、では忌部氏とはどのように成立したのでしょうか?
徳島県の忌部山には種穂忌部神社があります、その山域には「聖神」がいた様子が残ります。
徳島県の忌部山
特に種穂忌部神社のある所には「日智子(聖)神社」や「(山川町)日知利子」という地名が残り「聖の子」と読める事から種穂忌部神社の祭神の一人は「聖神」の事ではないかと考えます。(※どの祭神が聖神かはまだ不明、もう一ヶ所にある忌部神社では聖天寺(※元は神社)で祀られていると推測。)
種穂忌部神社は「多那穂」と以前は書いたそうですが、今は「多(た)」と読ませている漢字は「多(おお)」と本当は読ませていたのではないかという事を指摘しておきます、というのも「大一族」から派生した一族に「多氏」があると考えている為ですが、まだ確定できるほど研究が出来ていませんので指摘するに留めます。
とにかく、忌部氏のルーツに「聖神」がいたとする事を覚えておいて欲しいと思います。
次に三重県伊賀市にある「敢国神社」には金山姫が祀られています、これは南宮大社から勧請された逸話が残っていますが、勧請だけなら南宮山の山名が残る理由が説明出来ません、本当の所として一度は南宮大社で隠居した金山姫は、生前に伊賀市の南宮山の麓に居を移していたと推測します。
※これにより南宮山の名が残る理由になります(金山姫、南宮という宮号の支配域を示す山名)
※金山姫は死後に南宮大社にて祀られますが、977年に再び勧請されたと考える。
そして伊賀にある南宮山の山頂では「桃太郎岩」が祀られていたと伝えます、これは岩をご神体とする古い祭祀で、古い神社には残っている様式です、今でこそ「摂社」という扱いをされていますが、古代は供養塚と呼ぶべき岩のご神体だったろうと考えるものです。
神前神社の岩のご神体の事例
桃太郎岩を祀っていた理由は桃太郎が父親だったからとしか考えられません、そして1世紀頃の女性である金山姫の父親であり「桃太郎」と呼ばれる人物は岡山県の吉備津彦(3~4世紀頃の人物)の事ではありません。(※そもそも吉備津彦はおとぎ話の桃太郎に比定される人物ですが、桃太郎と呼ばれた事は無い人物です。)
では誰なのかというと愛知県犬山市にある桃太郎神社で祀られる「意富加牟豆美命(おおかむずみのみこと)」で間違い無いと考えます、意富加牟豆美命はアマテラスの頃の人物と伝え紀元前後頃の人物となり時代も一致します。
※アマテラスは三人いますが、最初の二人は紀元前、三人目のアマテラスは瀬織津姫で紀元後の人物とする情報が残ります。(※ホツマツタヱの年号解読に由来)
桃太郎という名前の由来は亡くなった場所の山が「桃山」と名付けられ、「立石(※男性の場合のご神体)」を祭祀する様子が残っていますので桃山とは意富加牟豆美命の神奈備山と考えて良い事が分かります、山名は部族名を示す事は再三示してきた事であり、隠居後に「桃」と部族名(姓)を変えた事により山名が桃山となった事を伝えられている事になります、よって生前の名乗りとは違う事も示しています。
桃山
意富加牟豆美命(桃太郎)は「子供の守り神」として今はあるようですが、本来の御利益は「桃太郎岩」の方にこそ正しく残されていると考えます、桃太郎岩は「子授・安産の神」としていて桃太郎には相応しく無い御利益になっています。(笑)
桃太郎岩
では、どうしてこの様な御利益が来たのかを知る為には、伊怒比咩(いぬひめ)が強く関係をしてまいります、愛知県の伊奴神社(いぬじんじゃ)は「子授・安産の神」として伊奴姫(いぬひめ)を祭神としています、この伊奴姫は聖神の母親である事が『国司文書 但馬故事記 上巻』「第8巻 二方郡故事記」の系図情報からも分かっています。(※古事記の情報も加味)

『国司文書 但馬故事記 上巻』「第8巻 二方郡故事記」
伊奴姫の父親は「神活産霊(いくむすび)神」と呼ばれ別名で「伊久魂(いくたま)命」と呼ばれる人物でもあります、この「イクムスビ」とは「イクタマ」とは同一人物であり、宮中八神の一柱として祀られています、造化三神の神皇産霊神の子とされ「生成化育の神」と説明されています。
生成化育の神
「生成化育」とは「自然が万物を生み育て、宇宙をつくりあげていること。」という意味ですが、神社にお参りに来るのは人間なので、その意味を人間に当てはめて「子授・安産の神」とその意味を変えていると考えられます。
※桃太郎とイクムスビが同一人物なので起こった現象になります。
※現代の桃太郎のイメージは吉備津彦に由来していると考えますが、意富加牟豆美命の頃は単に桃一族の始祖という意味で「桃太郎」だったと考えます。
安産・子授けの神へと変身(※女性の方が好ましいので伊奴姫)
伊奴姫も同じ御利益である事からイクムスビとの関係が強く疑われます、桃太郎神社のスグ南には国宝の犬山城があり、山名は「犬山」だった事を知る事が出来ます、伊奴姫はその犬山の支配者の娘であることが強く疑われます。

桃太郎の関連図
これらの情報を総合的かつ合理的に解釈すると、イクムスビとする人物は姓または部族名を「犬」として「犬山」に支配域を置き、十二支の「戌(いぬ)一族」を率いていた将と考えられ、隠居後に「桃」という宮号に改め、通称として「桃太郎」と呼ばれたと考えられます。
子孫は「犬山」と「桃山」の両方の名乗りを受け継ぎ各地へ散って繁栄している様子は地名の残り方からも分かります。
父親は神皇産霊神とありますので、私の研究では「お釈迦様」の事であり、釈迦族でもあります、桃太郎の名乗りは「意富加牟豆美命(おおかむずみのみこと)」で大一族の派生部族(※直系の可能性も有り)である事が強く疑われます。
※島根県松江市の意宇川(おうがわ)の名前にも関係があるとも考えています}
大一族の流れならば子孫が「忌部」を名乗る資格がある事は明白です、大一族の始祖の忌が日本において最初に付けた村名・名乗りである「忌部(いんべ)」を孫の聖神に継承させたのが忌部氏の始まりではないかと考えます。
伊部氏も同じ頃生まれたと考えられますので指摘をしておきます。(※忌部から分家して伊部となった可能性があると考えています。)
天太玉命や天日鷲命などの比定者が誰かという問題が残りますが、概ねの血筋の特定は出来たのではないでしょうか?
大一族は一方で「多氏(おおし)」として認識されていると考えますが、多氏は分家の一つで本家は「大氏」であると今回の考察では指摘をしています、この認識からも古代史への理解は大きく変わるハズです。
皆さんの古代史への理解への一助になれば良いなと思います。
龍海

















