ヤマトの状況とウケモチの神 | 小野小町(五代目)の末裔、小野龍海の歴史研究

小野小町(五代目)の末裔、小野龍海の歴史研究

 五代目、小野小町(小野吉子)の子孫としての記録と記憶及び小野一族・ご先祖の研究・成果、趣味の紹介

 ホツマツタヱやウエツフミ、天皇の系譜に考察を加え、高御産巣日(タカミムスビ)系の伝承から見えて来た古代の姿を中間報告の形で書いて頭を整理したいと思います。


 ホツマツタヱには詳しく出てくる所と全く出てこない所があり、その最たる場所が吉備になります。


 少し前に岡山市にある津島遺跡を見に行って学芸員の方との会話で認識しましたが、つまりホツマツタヱに出ない地域は情報に乏しい、つまり別の勢力が支配していて詳細を知る術が無かったという意味になると思います。


 そして神武天皇のカンタケは長髄彦の討伐に出発したのに吉備の高島で3年も内政をした事になっています。


 これはつまり吉備の勢力に助力を頼むとともに吉備を通じて饒速日命と長髄彦に対して交渉を行っていたと解するのが、極々自然と思います。


 しかし助力を断られ交渉に失敗したカンタケや五瀬命は戦いを挑みますが、コテンパンに負けている事が五瀬命の戦死(五瀬命が大将だった可能性が高い)から、兄弟が皆死んで困っていたカンタケの姿が想像できます。


 実はこの時点ではクシミカタマは参戦していなかったのではと私は確信しています。


 五瀬命の右臣で後には神武天皇の右臣にはなっていますが、天照の直系による支配に対して皆が一様に不満を持っていたのが神武天皇の東遷の真実だったと思えるのです。


 そして和歌山県から上陸したカンタケ勢力は何故か余力十分な饒速日命・長髄彦勢力の方から降伏されるのてす、ありえないでしょ!!!


 つまり真実の鍵はその後の体制が示しています、サホコチタルと呼ばれた鉄剣を多く有し強兵のクシミカタマ勢(たぶん出雲+吉備)を右臣としてヤマトの正規軍として、饒速日命の子であるウマシマチや物部の系譜を重用し、カンタケとクシミカタマは兄弟・親子の契りを結び(この時に木花咲耶姫系の娘がクシミカタマとの間に設けた子が小野となったと推察している)、高皇産霊尊系とウケモチ系との連合国家になったと思います。


 ではクシミカタマ、即ち素戔嗚命の直系とはどういう意味を持つのかですが、私はもしかしたらウケモチ系へ婿入りしたんじゃないかと思っています。


 これは正式なものではなく、素戔嗚命の心情的にそういう実態があったのではないかという事です。


 天照と素戔嗚命との確執は大きく、素戔嗚命を支えてくれたウケモチ系への感謝から直系はウケモチ寄りの行動をしていたと想像しています。


 因みに素戔嗚命の嫁である櫛名田姫ですが足名椎・手名椎の娘ですが、島根県益田市に残る伝承ては足名椎は大山祇の息子になっており、ウケモチ系の姫が足名椎と手名椎を結びつけた事になっています。


 また大山祇のサクラウチが相模の小野の新田を開く前は益田のあたりに居た事が、伝承から分かってくるのです。


 そしてサクラウチとウケモチ系との関係が益田の伝承でも伺われるのです。興味がある方は乙子狭姫(おとごさひめ)の伝承を読んでみて下さい。