阪神大震災 20年後 復興は終わっていなかった |         きんぱこ(^^)v  

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      砂坂を這う蟻  たそがれきんのすけ

震災から20年も経った。


なんだかあっという間でもあり、時の移り変わりを感じなくもないです。


私は20年前に脱サラをして小さな会社を始めた。

歳を決めて、独立しようと決めていました。

知人や知り合いを頼って仕事を分けてもらいながら初めて、少しずつ仕事が増えかけていた時でした。


その日、大阪を出て朝の九時には姫路の新日鉄広畑工場につくつもりで、6時半には大阪を出て阪神高速に乗り、姫路に向かおうと考えていました。


しかし、その日の6時前に、この地震が起こりました。


私だけかもしれませんが、いつも地震が来る直前は、急に静かになったような錯覚を覚え、耳の中で「ウイーン」という重機が動くような音がして、それからすぐに揺れがやってきます。

皆さんもそんなことないですか?


その間2,3秒ですから、身動きすら出来ないのですけれど。

何秒・・・いや何十秒の間ベッドにしがみついていたでしょうか。
ベッドの横の足の短いテーブルの上に置いてあったMACのパソコンが目に入り、なんとか転げ落ちないように手を伸ばしましたが届かず、そのまま私がベッドの横に転げ落ちました。


なんとか片手でパソコンを掴んだまま踏ん張って、「いったいいつになったらこの揺れは収まるのだろう」と思ってしまったほど長く続いた揺れでした。


そして揺れが収まり、(この地震はただ事ではないぞ・・・)と、テレビをつけてみたのです。


震源地は勿論淡路島で最大の被害は西宮、そして私は大阪の北区でしたが、その時にはどこが震源かはわかりませんでした。


テレビは6時前だったせいか、どこかのテレビ局からうす暗くオレンジの街頭が照らし出す公園の静かな風景が映っていました。

(こんな地震なのに・・・どうなってるのだろう)

6時になって、NHKがようやくニュースを始めました。

「先ほど京阪神地区で地震がありました・・・」
と冷静な言葉で始まり、
「この地震により、滋賀県大津市の老人が転び、救急車で運ばれたということです」
というのが、最初の内容でした。

(こんな地震で・・・そんだけのわけないやろ)

私はベッドにもたれながら座り、周りの片づけも出かける準備もせずに、テレビを見続けていました。


6時10分
6時15分・・・


時間が進むにつれ、少しずつテレビ局に被災の映像が入って来たのでしょう。


テレビ局も先ほどの落ち着きを忘れたかのようにあわただしくなってきました。


そして6時30分ごろに報道された映像を見て、私は絶句しました。
この日に姫路に向かうために通る予定の阪神高速神戸線の高架が、見事に倒れていたのです。


2

あと30分地震が来るのが遅かったら、俺はあそこを走っていた


高速道路で地震に遭った経験は過去にありました、震度2,3程度でも道路はくねくねと波打って、どうしたらいいかわからなくなります。

平でまっすぐのアスファルトが、くねくねと波打つのです。


この地震の規模ならば、さらにそれどころではなかったでしょう。

そう思うとゾッとしました。



1

あとで西宮の知人に聞くと、その知人は新婚だったのですが、二段に積まれたタンスの上半分が、まるで積み木落としのように、一瞬にして反対側の壁に「ばーん」とぶつかって下に落ちたそうです。
新婚の二人は真ん中に敷いた布団から、何もできず、タンスが飛ぶところを下から見上げていたと言うことです。
二人は幸いにもその箪笥に挟まれたことで怪我もなく無事でした。


この震災で西宮は一瞬に倒壊、神戸長田は倒壊と火災により、沢山の人が亡くなりました。

死者 : 6,434名
行方不明者 : 3名
負傷者 : 43,792名

生き残っても多くの人が、心的ストレスを受けて、外出すら出来なくなった女性も数多く居ました。


私もっと現場近くで被害に遭っていたら、こんな事すら書けなかったでしょうね。


その日私は、何はともあれ姫路に行かねばいけなかったので、気を取り直して車で出発しました。

西宮は通行不可能なので、思い切って北上し、日本海近くを走る国道9号線まで迂回して、兵庫県の和田山から姫路へと向かいました。

考えていることはみんな同じ。

9号線は大渋滞でした。

京阪神の交通機能が麻痺して、主要道路は大阪から100キロも北にある国道9号線しか機能していなかったのです。


大阪を出たのは9時前、そして姫路に着いたのは夕方の5時でした。


翌日からはなんとか仕事が出来たものの、毎晩仕事が終わると友人知人と連絡を取り合って無事を確認していたのを憶えています。


現地で被災に遭った人々と比べればどうということは無いのですが、大阪に住んでいてもショックを受けるほどの地震でした。


もう20年も経ったのですね。


神戸の街並みはすっかり立ち直ったように見えます。


しかし、今テレビで見ていると、長田区の実情は酷いものですね

昔の長田は怖かったけれど、人の流れも多かった。


今は綺麗になったけれど、シャッター商店街になり、まさに張りぼての街になりつつあるようです。

店を持っていて酷い惨状のところは、たとえば購入時の等価交換で違う場所に移れるなど、対策を講じてあげてほしいです。


あと、いくら復興計画であっても人が入らないマンションを建てても無駄なのではないでしょうか。


そんなマンションを計画通り立てなくとも、現状で長田のマンション建築計画と予算を別の事に変えるとか、柔軟な対応が出来ないのでしょうか。


復興はまだ終わってはいませんでした。