『困れば誰かが助けてくれる』が生まれる瞬間 | みんな、幸せになりたいだけでしょ

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「あ、ごめん」

自分が悪いと思ってないのに、
なぜか謝ってしまう。

「大人なんだから、そのくらい、自分で何とかしてくれよ」

内心ではあきれていても、
ついつい世話を焼いてしまう。


そんなことはないだろうか?


知り合いの女性が、
こんなことを話してくれた。


90歳を超えた両親を、
働きながら自宅で介護している。

寝たきりではないけれど、
日常のかなりの部分を
サポートしている。

ところが、ある日、
彼女の父親が、
ケアマネさんを怒鳴りつけて
追い返してしまった。

彼女が

「どうすんのよ!これから!」

と言ったら、父親からは

「そんなことお知らん」

と返ってきた、と。


疲れ果てた顔で
話してくれた彼女を
見ながら、私は思った。


彼女はとても優しい人だ。

でも、その「優しさ」が、
彼女を困った状況にしている
一つの要因かもしれない。

今日は、その話をしようと思う。


■境界線が崩壊すると起こること


自分と他人は別の人間だ、
と頭ではわかっている。

でも、気づいたら
自分の時間や体力や気持ちを
相手に全部渡してしまっている

——そういう人が、世の中にはたくさんいる。

たとえば。

若いころ、散々
「お前が悪い」とか
「バカだな」とか
傷つけられた親でも、

年を取って

「買い物に行けなくて困ってる」

と言われると、断れない。

しょうがないと思って、
面倒を見に行くが、
帰ってきて、どっと疲れる。


傍から見たら
優しい子供だろう。


でも私はこれを
「優しさ」と呼ぶのは、
少し違う気がする。


なぜなら、その状態は、
相手のためにも、
自分のためにも、
実はなっていないからだ。



■助けることが事態を悪化させることもある

これは責める話ではない。
仕組みの話だ。

誰かが困ったとき、
すぐに助けに行く。

その人の問題を
代わりに解決する。

相手が「困った」と言えば、
また対応する。

これが続くと、
相手の中に静かに、
ある「設定」が入る。


「困れば、誰かがなんとかしてくれる」


一度この設定が入ると、
自分で考える機会が減っていく。

自分の行動が
周囲にどう影響するかを、
想像しなくなる。

ケアマネさんを怒鳴っても、
誰かが謝って穴埋めしてくれると、
無意識に知っている。


あなたが悪いのではない。
相手が悪いのでもない。

これは、
「先回りして助ける」という
行動パターンが生み出す、
構造的な結果だ。



■背負うことと、助けることは別

「親子なんだから助け合うのが当然」

という言葉は、よく聞く。

でも本来の助け合いとは、
自立した人間同士が、
自分の意志で
手を貸し合うことを指すのだと
私は思っている。


自分でできることを放棄して、
関係性を盾に、
無償労働を要求してくる人間とは、
そもそも、助け合いということ自体が
成り立たない。

また、もしかしたら

「扶養義務があるでしょ」

という人もいるかもしれない。

確かに、法律上の
扶養義務は存在する。

ただし、それは
金銭的支援の話であって、
感情ごと差し出すことを
求めているわけではない。

さらに言うなら、それは
自分の生活を破綻させてまで行うことは
求めていない。


「あなたが困っているかどうかと、私が手を貸すかどうかは、別の話だ」


この一線を引くことは、
冷たく見えるかもしれない。


でも、相手を

「自分の人生に責任を持てる人」

として扱うことが、
時に最も深い敬意になる。


慰めのつもりで
全部引き受けることが、
相手から

「自分でやれる」

という経験を
奪い続けているとしたら

それは、どちらにとっても
苦しい構造だ。

 


最後に、一つだけ

今すぐ何かを変える必要はない。

ただ一つだけ、
こんな問いを自分に向けてみてほしい。

「私は今、本当に助けたくて助けているのか。それとも、助けないことへの罪悪感から動いているのか」

その答えを、誰かに言わなくていい。

判断もしなくていい。

ただ、自分の中で正直に見てみること。

それだけで、何かが少し変わり始めることがある。