最近気になっていたのが、雲中供養菩薩。
ひとつの人生が終わり、天に帰る時、阿弥陀様がお迎えに来られます。
阿弥陀様は、地上の三次元から、より上の次元に亡くなった人々を引き上げられます。
その時に、一緒に来られるのが、雲中供養菩薩。
先祖供養をさせていただく時にも、必ず阿弥陀様と共にご降臨していただきます。
雲中供養菩薩を何故、一緒に呼び出すのか、その役割がよくわかりませんでした。
先日、京都国立博物館で法然上人の800回忌で特別展覧会に行きました。
法然上人の没後一年後に納められた阿弥陀如来の胎内から、北は蝦夷から南は九州まで、全国から寄せられた名もなき人々(名前はあるのですが、一般の方のカタカナやひらがなの姓の無い、代筆された署名がほとんど)4万人以上の署名が出てきたそうです。
人はもともと信心深い生き物なのだと思います。尚更、日本人は四季の移ろいの中に、宇宙の理を肌で感じてきましたので、今回の地震にたいする反応も、世界の被災国と較べると穏やかなのかもしれません。
(でも、都会の人が、それをもっと国や東電に怒るべきだとか、判断しないでほしいと思います。そう思った人は、ご自分でその方たちのために、とるべき行動をして欲しいと願います。慎ましさは、彼等の生き方であり、日本人として培ってきた純粋な美しさでもあるのですから)
厳しい現実の生活の中で、自然=神=計らいにゆだねる己のあり方を「救済」という広い領域で観ることを知った時、平安末期の時代に於いては、念仏すれば「救われる」という考え方は、その時代としては、アセンションにも近いような価値観の衝撃だったのかもしれません。
時の権力者たちは、その民衆を動かすエネルギーの勢いに身の危険を感じ、法然を流罪にしたのもうなずけます。
歴史は未だに繰り返し、人の心は驕り続けています。
どうしても目視確認したかったのが、今回のパンフットにも載っていた、絵伝48巻中37巻のバニラロースのたなびく雲にのって降臨してこられる、阿弥陀如来と雲中菩薩たち。
やわらかいはんなりとした光に満ちた、まさにこうであって欲しい光景を絵にしたような素晴らしいエネルギーにあふれたものでした。
そして、今日は、思い立って宇治の平等院に行って来ました。
雨のなか、藤が満開でした。
静かな池を眺めながら、阿弥陀如来のまわりを取り巻く、52体の菩薩たち。
殆どの菩薩が楽器をもち、あるいは、舞い、祈り、そこの空気が動き、音楽が聞こえてくるようなフィールドが形成されているようでした。
全ては音=波動でできている。人は音に癒される。それぞれのもつ音=波動=光。
阿弥陀如来は極楽で、蓮池のほとりに立ち、蓮の花の芳醇な香りと沙やけ気鈴の音を耳にする。そのまわりを吹き渡る風の音、絹擦れのような心地よい触覚、美しい光、そのひとつひとつが、雲中供養菩薩たち。
このエネルギーとヴィジョンにこれからは、降臨していただきましょう。

