ノートに自分の感情を書くときにさきこさんから教えてもらったこと。
事実はただの事実として見る。
事実に幻をくっつけない。
「勝ち負け」「優劣」って勝手に自分が作り上げた幻なんだけど、
どうしてもそう見ちゃう。そう思ってしまう。
そんな時がある。
それをじっくり見ていくと
「劣っている私でいたい」
「劣っているのに愛されている私」がいい、
って思っていた。
そこには
「どんな私でも愛されたい」という思いがあって、
「どんな私でも愛されているなら、このままの私でもいいってことになる」
って、ややこしくしていた。
つまり、
愛されるためには「愛される私」にならないといけない、
このままの私では愛されないかもしれない、という思い。
なぜなら「愛されるかどうかは相手次第」だから。
でもこれってその通りだと思った。
「相手が私を愛する」というのは、主語が相手だから決めるのは相手。
つまり「愛されるかどうか」はどこまで行っても相手次第。
私に出来ることは
「愛されているかどうか」を求め続けるか?
相手次第をやめるか?
それを私は選べる!ということ。
ラッキーなことに選べます!ってやつ。
「愛されている」という事と、私の価値は関係無い。
存在していることが私の価値。
ならば、
自分主体でいい。
自分主体がいい。
私次第がいい。
私が愛したいか、愛しているか、
それだけでいい。
もちろん、愛してくれたら嬉しい。
でもやっぱり相手が決めること。仕方ない。

この前行った奈良駅近くの新しいカフェCHAMIカフェラテが美味しかった
愛をもらえるのを待つ側って、
ちょうだい、ちょうだい、もっとちょうだい!!
って言ってるクレクレ女なんだな。。。。
私、愛されるために努力してるんだからちょうだいよね!って叫んでる。
本当はそんなことしなくても愛されていたんだよね。
でも、こうじゃないと愛されないと思ってる。
愛の形って一つじゃない。
「これ!これだけ!」って決めると難しい。
愛とはやっぱり「すべて」なんだ。
束縛だって歪んだ愛の形。
もしかしたら暴力も。
私は好きじゃない。それは好みじゃない。
私は私の「好み」の愛を放とう。
そう思った。


