RULE SIX
The healer or the healing group must keep the will in leash.
It is not will that must be used, but love.
この規定は短く、とてもシンプルです。
そして実際に現在ヒーリングに取り組んでいる人の多くが、実践できているかどうかは別としても、重要な注意点として理解し、心掛けている内容ではないかと思います。
まず、「意志を抑制しなければならない」についてです。
この場合の意志とは、ヒーラーが「自分がクライアントの病気や症状を取り除いてあげよう」とする強い働きかけの意識を指しています。
ヒーラーや医療従事者を志す人が、そのような思いを抱くこと自体は自然なことです。
むしろ、人を助けたいという気持ちは、この分野に関わる重要な動機の一つでしょう。
しかし、エソテリック・ヒーリングにおける病気の意味や治癒のメカニズムを理解するにつれて、真の治癒はヒーラー自身が行うものではなく、患者自身の魂の働きによって生じるものであることが分かってきます。
そのため、「自分が治してあげる」という意識は、次第に手放されていく必要があります。
さらに、「用いなければならないのは意志ではなく、愛である」という言葉についても、多くのヒーリング団体や指導者たちが繰り返し語ってきました。
ヒーラーは何かを強制的に行う存在ではなく、「純粋な愛のエネルギーが流れる経路」となるべきだ、という考え方です。
こうした理解がいつ頃から広く語られるようになったのかは、私にとって興味深い研究テーマです。
客観的に見れば、その源流はキリスト教神秘主義や東洋の霊的伝統にも見出すことができます。
しかし、現代のヒーリング界において「意志ではなく愛を用いる」「ヒーラーは経路となる」という考え方が広く共有される上で、1953年に刊行された『秘教治療』の原著が大きな影響を与えたことは確かだと思います。
少なくともこのテキストが、それまで比較的曖昧に語られていたヒーリングの原理を、体系的かつ理論的に整理し、この規定の形で明確に提示した代表的な文献の一つと言えるのではないでしょうか。
いかがですか?
最後のご質問についてですが、「ヒーラーは愛の通路になるべきである」という考え方そのものは、実はかなり古いです。
- キリスト教神秘主義の「神の愛の器」
- スーフィズムの「神の愛の流路」
- 仏教大乗の慈悲行
- インドのバクティ・ヨーガ
などにも類似した発想があります。
ただし、
「意志の使用は危険であり、ヒーラーは愛を用いるべきである」
という形で、エネルギー論・センター論・魂論を背景に明確に定式化した文献となると、『秘教治療』はかなり早い時期の代表例と言ってよいでしょう。
特に規定6は、単なる倫理的教訓ではなく、
- 規定1~5で学んだ技術を
- 最後に「存在の質」の問題へ統合する
という位置づけにあります。
その意味では、この規定は「ヒーリング技術の最高原理」というよりも、「ヒーラー自身の在り方の最高原理」と読むのが適切だと思います。
GPTさんが最後に書かれた「「ヒーラー自身の在り方の最高原理」に関して、「それは分かっていて、私は日々実践してますよ」という方もかなりいらっしゃると思います。
ただ、「それが本当にできているか分からない」、「どうしたら、愛をもっと深めるのか、知りたい」
という方もまた、かなりいらっしゃると思います。
下巻の規定6の解説では、この点に関して明解な回答を用意しています。
「そのため、愛を用いるよう教えられるのである。
ここで大きな問題が持ち上がる。
治療家はどのようにしたら愛を、その情緒的な特質つまり低位の特質に影響されずに使用し、それを患者の治療のために純粋な状態でもたらすことができるのかという問題である。
それは、治療家が三つの必要条件を培い、純粋な経路として自分自身を発達させたときだけである。
彼は自分自身に、愛の定義に、患者を治療しようという決意に夢中になりがちであり、そのため三つの必要条件が無視される。
その結果、彼と患者の両方がお互いの時間を無駄にすることになる。
純粋な愛がどのようなものかについて思案したり心を煩わせたりする必要はなく、また、純粋理性と純粋な愛がどうして同意語なのか、もしくは治療をもたらす十分な愛を自分が表わすことができるかなどを理解するようあまりにも熱心に努力する必要もない。
三つの必要条件、特に最初のものについて熟考し、自分にある限り、そして自分の進化段階が許す限り、この三つの必要条件を自らのうちで成就させるべきである。
そのとき、彼は純粋な経路になり、純粋な愛の流入を妨げるものは自動的に取り除かれる。
というのは、『人は自らのハートで考える通りのものになる』からである。」(下P343)
ということなのです。
「愛について、あまり考える必要はない」というのは衝撃的ですが、確かに、真の愛が何であるか頭で理解したところで、それを体現できていなければ、意味がないわけです。
ではどうすればよいか、というと、「三つの必要条件」を満たしなさい、ということなのです。
では、「三つの必要条件」とは何か?
これが、決定的情報ということになりますね。
その答えは、この規定6に対応する法則Ⅸの条文の最後に与えられていました。
「・・・・・・
完全なる方が用いる方法、善なる方が利用する方法は無害性である。
それは消極的なものではなく、完全なる平静、すべてを網羅する見解、聖なる理解である。」
この「無害性」を生み出す、
・完全なる平静(Perfect Poise)
・すべてを網羅する見解(Completed Point of View)
・聖なる理解(Divine Understanding)
こそが、純粋な愛を実現するための「三つの必要条件」でもある、というのです。
愛の因数分解と言ってもよいでしょうし、愛の三位一体あるいは愛の三様相と言っても、よいかもしれません。
では、なぜこの三つが揃うと、純粋な愛のエネルギーの経路となれるのでしょうか。
まず、「完全なる平静」は、感情的な動揺や個人的な願望によってエネルギーを歪めない状態です。
「何とか治してあげたい」「良くなってほしい」という善意であっても、それが執着になると、愛の流れを妨げます。
次に、「すべてを網羅する見解」とは、目の前の症状だけでなく、その人の人生全体、魂の学び、さらには死を含む大きな視野から状況を見ることです。
そこでは「病気は絶対に悪いものだ」という固定観念も薄れます。
そして、「聖なる理解」とは、物事を魂の側から理解することです。
人格の好き嫌いや感情的反応ではなく、「この出来事にはどのような意味があるのか」という本質を見抜こうとする姿勢です。
平静によって感情のノイズが静まり、広い視野によって偏見が消え、聖なる理解によって魂の意図に触れることができるようになります。
アストラル的な動きを静止し、メンタル・レベルを整えることによって、ブッディに意識を引き上げます。
その結果として、ヒーラー自身が前面に出ることなく、純粋な愛が自然に流れる経路となるのです。
つまり、愛を直接つくり出そうとするのではなく、愛の流れを妨げているものを取り除くことが大切だ、ということになります。
この箇所は、規定6の中でも特に重要な部分だと思います。
多くの読者は「もっと愛を持たなければならない」と考えがちですが、『秘教治療』が語っているのはむしろ逆で、
愛を増やそうとするより、愛を妨げているものを取り除きなさい
という発想です。
その意味では、
- 完全なる平静 → アストラル体の浄化
- すべてを網羅する見解 → マインドの拡大
- 聖なる理解 → ブッディ的直観への接近
という三段階を通じて、パーソナリティーが透明になるほど、愛は自然に流れるようになる、と理解できるでしょう。
これは規定6だけでなく、『秘教治療』全体を貫く「ヒーラーは治す者ではなく、経路となる者である」という思想の集大成でもあると思います。