冬の海・天使のハシゴ
第二話 「生まれたての朝・風・キラキラ」
「タオルをな、忘れてん」
先輩は右手に持った白いタオルをひらひらさせた。小さなワニマークが入っているそのタオルは、フェンスの網に無造作にねじ込まれていたものだった。
コートで後片付けをしていた時、
(ん?誰のやろ……あとで部室持って帰っとこうかな)
と思っていたのに、忘れていた。
「そうなんですか」
「うん。そいでコートに戻ってきたら鍵差したままになってたから」
「あ、すいません……」
「いや、いいよ。それより早よ帰り。俺が職員室に鍵返しといたるから」
そう言うと、彼はドアに歩み寄って鍵を引き抜いた。慌てた私は、
「いいですよ! 最後までやります!」
と、追いかけた。
「今日はいいって。お母さんご飯作って待ってるんやろ?」
「えー。でもなんか先輩にこんな風にしてもらったのバレたらキャプテンに怒られるし……」
部の顧問である先生は名ばかりの初心者で、テニス自体にあまり精通していなかった。
だからこそ、キャプテンをはじめとする先輩たちの教えは部内では絶対だった。
「キャプテン怒ったら俺が怒り返したるから。もういいから帰り」
「……すいません…じゃあ失礼します!」
私は頭を下げ、踵を返してその場を立ち去ろうとした。
「あ。安藤、お前さ」
「はい」
「俺の名前覚えてる?」
「!!……はい……沢…沢☆※$先輩……」
「え?なんて?」
「沢☆※$先輩……」
沢の後なに言うてるかわからんわ!と先輩は笑いはじめた。
いつ彼が豹変していきなり怒り出すか気が気ではなかった私は、薄ら笑いをヘヘ、ヘヘ……と浮かべていた。
「村!沢村やからな!」
「あ、はい!わかりました!沢村先輩お疲れ様でした!」
先輩はうん、と右手をあげた。
なぜか駆けて、私はコートを後にした。
わけのわからない高揚感。きっと、いつも大人だ大人だと思っていた三年生と話が出来たことで、自分も少し大人の仲間入りをしたような恥ずかしい気持ち。
駆ける私の息がまた荒くなっていった。
すっかり花びらが落ち、緑の葉をいっぱいに萌え立たせはじめたソメイヨシノが春風にひらひら枝を揺らしていた。
四月も終わりにさしかかる頃。ゴールデンウイーク中も休みなしで練習の日々が続いていた。
私は基礎のみに終始する練習に心底嫌気が差していた。
(ボールを打つために入部したんや!拾うためやない!)
と勝手にふてくされ、無断で部を休みだした。
一週間も休み続けると、どんどん行きづらくなっていく。
モチベーションも下がるところまで下がり、
(ボール拾い部なんかどうでもええわ!)
と逆ギレして、ゴールデンウイークが終わる頃にはかなり投げやりになっていた。
休み明けの朝。
うだうだ惰眠をむさぼる私を、お母さんが起こしにきた。
「ホレ、蒼。起きなさい!なんかテニス部の先輩が来てくれてるで」
……先輩……
私はあたたかい布団の中、夢半分現実半分の幸せな・何がなんだか回らない頭でしばらく考え込んだ。
……先輩?!
飛び起きた私は、おぼつかない足でよろめきながらカーテンを開け窓から道路を見下ろした。
そこには自転車に跨った沢村先輩がいた。短く刈った髪をツンツン立たせたその髪型。ポケットに片手を突っ込んで・いた。
朝の眩しい光の中、ひどいブサイクな寝起き顔だったであろう私は、まだわけがわからないまま窓も開けて、
「おはようございます」
と、先輩にとんちんかんな挨拶をした。
「おー。はよ用意し。行くで、練習」
彼は私を見上げて笑った。
不思議と嫌だとは思わなかった。再び部に行くきっかけが出来て嬉しかったのかもしれない。
私は怒涛のごとく素早く身支度をはじめた。
朝はシャワーに入って髪を洗ってお気に入りのトリートメントをつける。それが毎日の習慣になっていたけれど、その日はさすがに急いでいたので、シャワーは取りやめて髪だけを洗った。
「あんた!先輩待たせて何やってんの!」
ジャパジャパ湯がはねる音に混ざってお母さんの声が聞こえた。
キュッとシャワー栓を閉じ、サッとタオルに髪をくぐらせる私の目に、刷りガラス越しの光が湯気を透かしてふんわり幸せに映った。
急いで玄関を出て、階段をかけ降りると、
「そんな急がんでもいいのに。髪まだ濡れてるやん。おもろい奴やな。とにかく後ろ乗り」
沢村先輩は私に、自転車の後ろの荷台の所に乗るよう促した。なんとなく遠慮がちに腰を下ろすと、
「よし」
と、先輩はグッとペダルを漕ぎ出した。
朝が。
朝が動き出す。
加速をつけて。
「先輩、自転車で学校行ったら怒られるんちゃいますか?」
ガタガタ体に響く振動に、声も少し震えた。中学校への自転車通学は禁止だった。
「怒られるから途中に隠しとくわ。安藤迎えに来るから乗ってきただけや」
先輩は学校近くの住宅街の中にある公民館の駐輪場に自転車を停めた。
そこからは学校まで二人で歩く。
部の練習では、たまに「大丈夫か?」と声かけをしてくれる程度の沢村先輩がなぜ私をわざわざ迎えにきてくれたのかわかりあぐねていた。
なんだか居心地が悪い。
三年生と並んで歩くには気後れして、少し後ろを申し訳なさげについて歩いた。
「あのーなんでわざわざ迎えに来てくれたんですか?」
私は聞いた。
「このままやったらお前部辞めてまうやん」
沢村先輩はさも当然のように答えた。私は急に恥ずかしくなってそれ以上は何も言えず、さっきよりも余計に距離を置いてひょこひょこ先輩に続いた。
「あ、そうや。俺の名前は?」
「沢村先輩!」
「そうそう」
裏門近くの階段で、掛け声をひとつに合わせ、ランニングしている野球部員たちとすれ違った。
それから、朝練がある日は毎日沢村先輩が迎えに来るようになった。
まだ子供だった私は、大人がソツなく人間関係をこなすように仲の良いフリなんて出来なかったから、打ち解けるまで少し時間がかかった。
けれど、子供らしく徐々に沢村先輩に心を開いていった。
太陽があればその方向へグッと花が開くように。
孵化したばかりの雛の刷り込みのように。
当然のように。
自分で登校して朝練に参加できる時間には起きているくせに、先輩の迎えを楽しみに待つようになった。
まだ生まれたばかりの太陽の柔らかい金の光を正面から受けて、先輩の運転する自転車はぐんぐん走った。私の乾ききらない髪を、冷たい空気の粒々がサラサラ梳いていく。
朝
風
いっぱいキラキラ
沢村先輩の背中は“男の人”の匂いがした。
ガタン!
「ぎゃー!」
段差に乗り上げ、私のお尻に衝撃が走ると、
「大丈夫か?ごめんごめん」
と沢村先輩はひどく謝った。
途中、私が住む団地の裏山をぐるりと周ったところにある小さな商店に、先輩はいつも立ち寄った。
そこでパンをいくつかと飲み物を買う。
「これ昼飯。うち母親おらんから弁当ないねん」
「そーなんですか」
私はまだそういうことが良くわからなくて。ただ、自分のカバンに毎日当たり前のように入っているお母さんの手作り弁当が少し重く感じた。
「お前、なんでも欲しいもん買い」
「じゃあオレンジジュースとか……あ、つぶつぶ入りとか……」
奥の座敷と店内の境の敷居に座り込んで、テレビで朝のニュースをボーッと見ているおじいちゃんに、
「すいません」
先輩が声をかけると、
「はいはい」
ゆっくりとしたスピードでパチパチそろばんを弾いておじいちゃんは総合計を出す。
きちんとレジがあったのに、彼はいつもそうしてそろばんを使った。
「あのじいちゃん、今日こそは計算間違いするかなーっていつも思うんやけど、全然間違えへんな!」
「はい!いつ間違えてもおかしくなさそうやけど、間違えないんですよねー。すごい正確!」
私たちの無駄話をどんどん後ろへ押し流して、自転車は進んだ。
途中にある住宅街の坂道では、
「降りましょうか?」
私の言葉に
「大丈夫やって!」
先輩はひょいっと立ち漕ぎで踏むペダルに力を込めた。ハンドルをギュッと握る彼のゴツゴツした甲に浮き出る血管が、(なんかすげー!)と私は思っていた。
春の日が、土を・アスファルトを・草を・花を・木を水も空も私たちも、すべて平等に芳しい自然の一部に溶かしながら照らし包んでいた。
自転車は多少右へ左へ蛇行しながら、ゆっくりと坂道を上っていった。
後ろから見れば、私たちのそんな幼い姿も泡沫の夢のように消えてしまいそうだっただろうか。
先の見えない・終わらない人生の坂道で、今、私は思うのだ。
もう一度、あの日の私に会いたい、と。戻りたいのではない。『会いたい』のだ。
そして、あの日の『彼』にも。
ただ、会いたい。
第三話「右手にシャツ、いっぱいの笑顔」 へ続く
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