「生活」がしたくなった、ここ数年。
肩書きを「百姓」にしようかと思う今日この頃。
百姓っていうと、農業をやるお百姓さんを思い浮かべると思うし、
選ばれし存在の反対側にいる民草、名もない人たちのこと思うと思う。
でも本来、百姓とは、百の生活の仕事をする人たちだったそう。
今の時代、何者かになることが尊いと思われている。
仕事で大成すること、社会的に役に立つ人であること、
専門分野を持っていること、だから主婦であってもなんであっても、
何者かになりたがる人が実に多い。
私も、若かりし日はそうだったけれど、なんだかここ数年は、
何かになりたいという感覚が薄れて、
じゃあ、何をやりたいの、って言った時に
「生活」がしたい。このワードが幾度となく上がってくるようになった。
何のために生きるって。別に意味などないのだ。
生きるために生きる。生きるために生活をする。
その生活を疎かにして、何者かになったところで何の意味がある?
今までの時代は専門家(飯の種)であることで収入を得られ、
社会から必要とされ、立場を築き、尊敬されることができた。
でも、AI時代、専門家に甘んじているだけでは、土台、生きていけなくなりつつある。
専門家であることが悪いのではなく、飯の種だからと甘んじてると足元救われるぜ、ってことなのだと思う。
純粋に心が踊る生き方を幾つになってもすることで、
自分という在り方に回帰していく。もうそれでしかないんだなと。
そう考えた時に、私は、何がしたいって究極の質問投げかけた時、「生活がしたい」だったわけです。笑
生活をするって一口に言っても、やることは無限にある。
衣食住を担うだけでも、百も二百もの仕事がある。
それを今の時代は全部、お金で交換していますが、
全部お金で交換してしまっているのが勿体無いし、楽しめないし、
部分的にでも自分の手で作る楽しさだったり、
全部お金で交換する手段しかないと、お金のために自分の生活と健康を犠牲にして
稼ぎ続けなくちゃいけなかったり、本末転倒なわけで。
「百姓」という言葉がピンとくるのは、百の生活の仕事をする人、
であり、生活のエキスパートでありながら、何者感がない。
お百姓さんって、米作りの専門家でありながら野菜作りの専門家でありながら、
機織りや糸紡ぎやお針子さんでありながら、
薬草や山菜の専門家でありながら、染め物や動物の専門家でありながら子育てや、
料理の専門家でありながら、木工や家づくりや、魚釣りの専門家でありながら、
「ただの人」なんですよ。
ただの名もなき生活者。しかもちょっと虐げられたニュアンスすら持っている。
尊すぎん?
現代の何者かにならねば病を、100歩も先を行く尊さだ。
究極の百姓になれるよう、残りの人生は、楽しもうと思う。
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