深い霧。
その霧の奥には森の闇が口を開いていた。
一歩踏み込めば、何が待ち受けているかも知れない。
白と黒…
あるようでない色彩。
その色彩の間に、水の音が聞こえる。
その音の響の中に人影が見える。
森と闇の間。
そこを一人の男が歩いていた。
この時代、山は恐れの場所でもあった。
入ったが最後、出られぬ者は多かった。
神隠し、祟り…
その噂は絶えることがない。
だが、この男に畏れなど微塵もない。
漆黒の棒を肩に担ぎ、颯爽と歩いている。
険しい道だが息一つ乱さない。
薄汚れた着物を身に纏い、腰に朱い瓢箪を結んでいた。
「おい、真魚よ!」
不思議な事に、その声は男の足下から聞こえてきた。
良く見ると側に一匹の子犬がいる。
妙な形の首輪を付けた銀色の子犬。
それが…
男の足下に纏わり付くように歩いていた。
「おい、真魚!聞いておるのか!」
その声の主は子犬であった。
真魚と呼ばれるこの男…
佐伯真魚…
後の世に、唐から密教を持ち込む。
弘法大師、空海と呼ばれる男である。

「なんだ…」
真魚の返事は素っ気ない。
「さっきからおかしいと思ったのじゃ…」
「お主…道を間違えておらぬか?」
子犬が真魚の前で立ち止まった。
真魚は何食わぬ顔で、その横を通り過ぎる。
子犬が真魚を追い越し、また止まる。
「俺の言う事が間違っておるのか?」
「いいや…」
真魚は笑みを浮かべてまた通り過ぎた。
「では、どうしてこの道を行く…」
「俺に説明せぬか!」
道無き道。
子犬が真魚という男を責める。
「壱与に会いたい気持ちは分かるが…」
真魚が子犬に向かって言った。
「そ、そう言うわけではない!」
否定はするが、見抜かれているのは明白な事実だ。
「嵐、悪いが少し付き合ってくれ…」
真魚はそう言って笑みを浮かべた。
「なんじゃ、他に言いたいことがありそうじゃのう…」
嵐という子犬が振り返って立ち止まる。
「三諸山はすぐそこだ…」
三諸山…現在では三輪山と呼ばれている。
すぐ横の谷を歩いているのである。
真魚がその山を指で示した。
行きたいのなら一人で行け…
そう言う意味にも聞こえる。
「お主に付き合うのが俺の仕事みたいなものじゃ!」
嵐という子犬は文句を言いながら、鼻先を前に向けた。
霧の上に山が浮かんでいる。
倭の大地が霧に沈んでいる。
倭の国は迷っていた。
都が移され、人々は彷徨っていた。
帝が力を持った宗教を嫌った。
南都六宗。
その力は平城京の隅々まで届いていた。
だが、他にも理由があった。
都が移された本当の理由。
それを知ることになるのは、もう少し後になってからだ。
三諸山。
その山の麓。
丘の上に一人の女が立っていた。
「真魚…」
「もうすぐよ…」
女がつぶやいた。
その女は目を閉じていた。
手を広げ何かをつぶやいた。
「この国の民を導き給え…」
女の身体が耀き始めた。
その耀きを天からの光が貫いた。
その一瞬、世界が耀いたように見えた。
そのように見えた。
しかし…
その光が天に昇ったのか…
舞い降りて来たものなのか…
それはわからなかった。
次回へ続く…

