「薺が…見えないなんて…」
明慧はその事実に戸惑っていた。
明慧には見えている。
見えていないのは慧鎮の方だ。

「薺様と…同じ名前だねって、驚いたんだ…」
出会った頃のことを、明慧は思い出していた。
薺は突然現れた。
友達のように…
姉のように…
母のように…
明慧に接した。
薺が来てくれることで、明慧も救われた。
そんな気がしていた。
「じゃあ一体…薺は…」
明慧は、本当の事を知りたくなった。
明慧が一番畏れていることは、薺がいなくなることだ。
その受け入れ難い事実が、明慧の心を凍らせる。
心の動きを鈍らせる。
心が動かねば、感情は起きない。
感情が起きなければ、波動は生まれない。
それは、魂の縮小を意味している。
器に閉じ込められた生命。
そのものが、低きものになっていくのだ。
「そうだ…」
明慧はふらふらと歩き出した。
手に持った箒を、杖代わりにして歩き始めた。
「明慧、どこに行く…」
慧鎮は明慧に聞いた。
明慧の耳にその言葉は聞こえない。
慧鎮は慌てて履き物を捜した。
「佐伯様なら…佐伯様なら…」
明慧はそうつぶやきながら、宿坊に向かっていた。
真魚が柱に背を持たせ、外を見ていた。
その側を風が抜けていく。
眠っていた嵐が、片目を開けた。
だが、直ぐに目を閉じた。
真魚の耳元で、その風が言った。
『お願い…助けてあげて…』
「明慧か…」
乱れる波動を、真魚は既に感じていた。
扉が開いた。
「佐伯様!佐伯様!」
いつもは冷静な明慧が慌てている。
「どうした、明慧…」
真魚は、明慧に向かって声をかけた。
その波動が明慧に届く。
ぴくっ!
一瞬震えたあと、明慧が真魚の方を向いた。
「佐伯様、聞きたい事がございます…」
入り口で立ったまま、泣きそうな顔をしていた。
「まぁ、来て、座れ…」
真魚の言葉が明慧を誘う。
「慧鎮殿も…」
明慧の後ろに、慧鎮が立っていた。
二人が真魚の前に座った。
「聞きたい事は何だ…」
真魚が二人に向き合った。
「薺の事なんです…」
明慧の声が震えている。
「助けてあげて…と言っていたぞ…」
真魚が笑ってそう答えた。
明慧はその言葉が、信じられなかった。
「薺を見たのですか?」
明慧は、その事実をすぐに確認したかった。
いるか…
いないのか…
それだけでも知りたかった。
自分が支えられてきたもの。
それが、存在しない…
それは受け入れがたい事実であった。
薺は明慧にとって、かけがえのない人であった。
「見てはいないが、存在はする…」
真魚はそう言った。
「やはり、薺はいるのですね!」
明慧の顔が華やいだ。
「だが、俺には…」
「助けてあげて…という言葉が…」
「助けてほしい…とも聞こえたのだ…」
真魚が二人にそう告げた。
「ああ…」
それを聞いた慧鎮の顔色が変わった。
「桔梗…」
慧鎮は、その名を思わずつぶやいた。

続く…
-この物語はフィクションであり、史実とは異なります。
実在の人物・団体とは一切関係ありません-