慧鎮は書斎で写経をしていた。
写経は、寺院にとって大切な仕事であった。
この時代、写経以外には経を増やす方法が無い。
無いものは借用し、写経するしか無い。

後に空海と最澄が経の借用を巡って、破談している。
般若理趣経。
その中の十七清浄句は、生命の交歓について書かれている。
生命を知らぬ者は誤解して受け取るだろう。
だが、それを知れば、文字の裏に隠された事実が見える。
真実に触れようとしない最澄。
それに、空海が呆れ果て借用を断った。
この事実は、最澄が生命に触れていないという事実を、浮き彫りにしている。
だが、これはまだ少し後の話である。
明慧が庭を掃除している。
目は見えぬが、箒の感覚と音で何があるか分かっている。
「明慧…」
慧鎮は、その仕草を不自然だと感じた。
楽しそうに一人で喋っている。
そうだと、思い込んでいた。
「まさか…」
慧鎮の中にある、不安が広がる。
今は亡き明慧の母。
その姿を思い浮かべた。
「桔梗…」
慧鎮はふらふらと立ち上がり、蔀戸をくぐった。
何かに導かれる様に濡れ縁に立った。
「き、桔梗なのか…」
慧鎮はその目に、涙を浮かべていた。
「慧鎮様?どうかなされたのですか?」
濡れ縁に呆然と立つ慧鎮に気がついた。
だが、明慧に慧鎮の涙は見えていない。
見えたとしても、涙の意味は知らない。
慧鎮は涙を袖で拭った。
「明慧…今、誰かと話していたか?」
少し震えた声で、慧鎮はその事実を確かめた。
それは慧鎮の中に、確信があったからだ。
「ええ、薺が今日も来てくれました」
「今まで、そこに」
「今までそこに…だと…」
明慧の言葉は、慧鎮の不安そのものであった。
明慧の言葉に偽りが無いとしたら、その名は受け入れがたい事実だった。
「慧鎮様、今日はおかしいですよ…」
「薺の話は、前からしていたではありませんか…」
明慧はその事実を慧鎮に告げた。
「そうだ…聞いていたな…」
慧鎮の目から涙が溢れている。
自らの行いを悔いている。
数年前から、この寺に来るようになった。
だが、姿は一度も見ていなかった。
慧鎮は実在する者とばかり考えていた。
「桔梗って…?」
「先ほど慧鎮様が…」
明慧は慧鎮の波動の乱れを感じていた。
慧鎮の心が揺れている。
明慧はその波動に、不安を覚えた。
「桔梗は…明慧の母の名だ…」
「そして、薺は…桔梗の妹の名だ…」
慧鎮は濡れ縁に座り込んだ。
そして、乱れた心を正そうとした。
「そ、そんな…」
明慧は、母の名を知らされていない。
「私は幼き頃、薺様にお世話になりました」
そして、明慧を育てたのは薺であった。
乳母のように、亡き姉の残した命を慈しんだ。
「薺は…反対したと聞く…」
「明慧をこの寺に預ける事を…」
慧鎮がその事実を言った。
「出来れば、自分が育てたいとまで…」
「だが、その頃には…」
貴族の女が自由でいられる筈が無い。
力のある者と結びつく事だけが、貴族の生き残る道だ。
貴族の女はその道具にされた。
この時代、貴族の女に自由という言葉は存在しない。
「俺には…薺の姿が見えぬ…」
慧鎮がその事実を告げた。
「そんな…」
明慧は混乱していた。
慧鎮の言った事が理解出来なかった。
明慧には、全てがあるものだ。
だが、慧鎮には薺という少女はいない。
明慧は、その理由が分からなかった。
ただ、その場に立ち尽くしていた。

続く…
-この物語はフィクションであり、史実とは異なります。
実在の人物・団体とは一切関係ありません-