先日、父の検査に付き合ったときに、病院であるご夫婦にあった。
見知らぬ方であったのだが、奥さんの方から意外な質問を受けた。
「なぜ、空海さんなのですか?」
という質問であった。
話の流れでこのブログの話になった。
その時にこう聞かれた。
私は言葉に詰まった。
そう言われれば、そうである。
恥ずかしい話であるが…
きっかけは、師に「書け!」と言われたからであって、
自分から書こうと思った訳ではない。
その師が亡くなったとき、師のパソコンのデータ整理をした。
デスクトップ上に、この小説が保管されていた。
それで、ちょっと切なくなった。
何年か止めていたが、「続きを書こう!」と決めた。
それが理由である。
書き始めてわかった事がある。
空海だけがエネルギーについて説いている事だ。
宗教とエネルギーは切り離せない。
そう思い込んでいた。
だが、実際は全てがそうではないことに気がついた。
超ひも理論などの宇宙論がある。
空海はこれに似たような事を既に書いている。
平安時代にこのような理論を書物に残している。
これには少し驚いた。
私が師に学んだ事もエネルギーについてだ。
エネルギーの一番大切な事。
それは、本を読むことではない。
本をどれだけ読んでも、それは分からない。
師が私を滝に入れてくださった理由。
それが、今になってようやく分かりかけた所だ。
エネルギーのことは体験しないと分からない。
それは、想像を遙かに超えているからだ。
『百聞は一見にしかず…』ということわざがある。
体験することは、見る事を遙かに凌ぐ。
私の固定概念は、エネルギー体験で完全に覆された。
それが、私の始まりであった。
空海と最澄。
二人の理趣経を介した話は有名である。
空海が最澄に理趣経を貸さなかったと言う話だ。
最澄は現代でいうと脳科学者のような方だ。
そこに落とし穴がある。
空海がそれを指摘したが、最澄は耳を貸さなかった。
「あれこれ考えるならやった方がいい」
「そんな事はやらなくてもわかる!」
「やってみてから考えても遅くはない」
「それは無駄な事だ!」
二人のやりとりが、私には手に取るようにわかる。
確実に言えることは、空海は会っていると言うことだ。
何に…
大いなる存在。
大日如来と空海は言っている。
そして、最澄は…
書くことが出来るとしたら私しかいないだろう。
そう思って書いている。
つたない文章ではあるが、最後までつきあって頂きたいと願う。