田んぼのあぜ道に彼岸花が咲いていた。
彼岸花は帰化植物。
中国から来たたった一株。
それが、今の日本にある全ての彼岸花の始まりだったようだ。
先日、三輪山に登ったときの話である。
団体の方達と一緒になった。
愛知から来られた40人ほどのご年配の団体客だった。
「これも何かの…」と思いながらペースを落として登った。
登る途中に少し話をしたのだけれど、歳をとると気になるらしい。
いわゆる「死」が近づくと「神」が気になるというのだ。
「いつ死ぬかなんて、若い人も同じですよ…」
そのような事をいいながら頂上についた。
三輪山は山自体がご神体である。
頂上には岩鞍がある。
頂上付近は霊気が出て心地良い。
だが、岩鞍に神がいるわけではない。(いるときもあるとは思うが…)
私が休憩していると、続々と頂上に着いた。
祠があり、そこでお参りをして、皆はすぐ降りてしまう。
「そっち、もう何もないよね!」
一人のご年配の婦人が、一緒に来ていた仲間に言った。
この言葉で私は気づかされた。
「そうなんだ…」
神は形がないエネルギー体だ。
私も目では見たことがない。
それが当たり前だと思っていた。
ある?ない?と問われたら「ある」と答える。
見える、見えないと聞かれたら「みえない」と言うだろう。
そうなのだ…
見えないものに逢いに来ているのに、見えることに縛られる。
ちょっと考えさせられた。
一方で霊気の場所を指定すればすぐ気づかれる方もいる。
意識を向ければそこにあるものなのだ。
気づかなかっただけだ。
見えない世界を気になる人が、見えるものに縛られている。
形のないものを求めながら、その形を捜している。
愛や悲しみには形がない。
それはありえない事なのだ。
五感で感じるものは他人には別のもの。
決して同じではない。
大切なことは、見たものを確認しあうのではなく、
感動を共有することである。 (愛し合う恋人同士は自然とコレをやっているのだが…)
だが、そうしないと(お互いに確認しないと)不安になる事実。
それが人を縛り付けるのだ。
この世には様々なからくりがある。
五感もその一つだ。
この宇宙で人が見えるものはわずか数パーセント。
それ以外は実在するが、人からすり抜けている。
それらは心で観じるしかないのである。
真実は見えない。
おこがましいが、私が神なら隠しておく。
その方が楽しいに決まっている。
見えない真実…
某漫画ではないが「この世は宝探しなのだ!」
私はそう思っている。
