満月が美しい夜であった。
月灯りが世界を包み込んでいる。
その柔らかい光の中に、馨しい香りが漂っていた。
甘い香り。
誰もがその虜になる。
そんな香りだ。
だが、その香りは危険な香りだ。
その香りが仲成の屋敷を包み込んでいる。
「満月は美しいのだが、この臭いはどうにかならぬか?」

屋根の上であった。
前鬼が後鬼に愚痴を言っている。
「何を言っておる、その臭いがお主を支えておるのじゃ」
後鬼が前鬼を窘める。
「皮肉なものだ…」
「この悪臭が生きている証なのか…」
鼻に詰めたものの悪臭。
前鬼はこの臭いを何かに例えた。
「この甘い香りを感じた瞬間、夢の世界じゃ…」
後鬼は、屋根の上に置かれた香炉を見ていた。
紗那と二人きりであった。
夢の世界。
紗那と二人。
二人だけの世界。
どこまでも続く花の絨毯に寝そべっている。
花の甘い香りの上でじゃれ合っていた。
幸せな時間。
いつまでも埋もれていたい。
東子はそう思った。
東子の目に一本の美しい花が咲いていた。
うす紫の美しい花だった。
東子はそれを手にとって臭いを嗅いだ。
その瞬間…
げほっ!
東子は咳き込んだ。
悪臭。
片方の鼻の穴に何かを詰められた。
その臭いで現実に引き戻された。
「東子…」
「東子…」
誰かが身体を揺すっている。
燈台の明かりがぼんやりと映し出す。
「紗那…」
夢の続きか…
「紗那なの…」
意識は半分夢の中だ。
「東子!」
急に身体を抱きしめられた。
伝わる感動。
東子は目を開けた。
「紗那!」
東子は紗那に無意識に抱きついた。
着物が濡れている。
涙が溢れていた。
「東子と行きたいところがある」
「どこ?私も行きたい!」
どこでもいい。
紗那と一緒に行けるのなら…
東子はそう思った。
「でも、この臭いどうにかならないの?」
「屋敷を出てから取ればいい」
東子はその臭いに参っている。
「でも、このままでは…」
そして、身なりを気にしている。
「着物などどうでもいい…」
紗那はそう言って東子を抱き上げた。
外に嵐が待っていた。
「あなたは…」
東子はその神の名を知らなかった。
「約束は守ったぞ…」
嵐が笑っている。
「嵐が俺たちを導いてくれる」
紗那が東子に微笑みかける。
「乗れ!」
嵐はそう言って背を低くした。
東子が前、紗那は東子を後ろから支えた。
「しっかり捕まっておれ!」
嵐が飛んだ。
「あっ」
東子が気がついた時、仲成の屋敷は小さくなっていた。
「すごい、すごいわ!」
満月が二人を見ている。
紗那が後ろから東子を抱きしめた。
背中に伝わる温もり。
東子は紗那の手をにぎっている。
「夢じゃない!」
東子は夜空に叫んだ。
「これは夢じゃないのよね!」
東子はその想いを抱きしめていた。

続く…
-この物語はフィクションであり、史実とは異なります。
実在の人物・団体とは一切関係ありません-