陽が沈み始めた。
森の中に蜩の鳴く声が響いている。
その木の上の甲高い音に混じって、草の中で虫の鈴音が聞こえている。
敵は動かない。
空はまだ明るい。
「やはり夜なのか…」
田村麻呂は夜に備えて灯りの準備をさせている。
「動かぬならば…こちらから行くぞ…」
田村麻呂はそう考えた時であった。
一枚の紙切れが田村麻呂の前に落ちて来た。
鳥の形に手でちぎられている。

「!」
それが何であるのか…
田村麻呂は気がついた。
理由はない。
そう感じただけだ。
「来るか!」
田村麻呂が声にしてそれを告げた。
それが始まりであった。
その瞬間…
虫の音が止んだ。
何かに怯えたように全ての虫が一瞬だけ鳴き止んだ。
有り得ない。
そう感じただけなのか…
本当にそうなのか…
だが、その一瞬の静寂を田村麻呂は認識していた。
そして、悲鳴が上がった。
その悲鳴が伝染していく。
何かが起こった。
兵が呻いていることは間違いない。
一人だけではない。
その声が聞こえる。
兵達の叫ぶ声が森に響く。
事態の確認を求める声…
悲鳴…
呻き…
空はまだ少し明るい。
だが、陽は沈んで行く。
森はどんどん暗くなる。
その速度に目が追いつかない。
夜であれば灯りをともしている。
だが、まだだと思っていた。
薄暗い森の中で兵達は狼狽える。
見えない何かに襲われている。
その恐怖と戦う事になる。
自らが生み出した恐怖と戦う事になるのだ。
「薄暮か…さすがだな…」
田村麻呂は口元に笑みを浮かべている。
歴戦の将である田村麻呂も笑うしかない。
「蝦夷の時もそうであったな…」
全てが後手に廻る。
「田村麻呂様!」
兵が田村麻呂に指示を求めに来たときには、収拾がつかなくなっていた。
恐怖そのものが渦を巻いて大きくなっている。
それは倭の兵が生み出したものだ。
「真魚よ、これぐらいで良いのではないか…」
森の影で、嵐が本来の姿で立っている。
「そうだな…」
真魚はその渦を感じている。
その視線の奥に既にそのものを捉えている。
「だが、飛炎と疾風…なかなかのものだ…」
真魚は二人の働きに驚きを隠せない。
「どうりで…倭に恨まれる訳だ…」
その力を高く評価している。
「一度、引く…」
真魚はそう言って嵐に乗った。
「田村麻呂様!いかがいたしましょう!」
笑いがこみ上げてくる。
これほど差があるものなのかとさえ思う。
だが、これが今の倭の力だ。
「こう暗くては戦は出来ぬな…」
「松明に火を灯せ!」
そして、田村麻呂がこう叫んだ。
「屋敷に火を放て!」
その眼差しは燃えさかる炎の様であった。

続く…
-この物語はフィクションであり、史実とは異なります。
実在の人物・団体とは一切関係ありません-