臨床宗教師という職業があるという事をテレビで初めて知った。
これから死に向かっていく人の心のケアをする仕事のようだ。
番組のメインは若いお坊さんのようであった。
大変難しい仕事だと思う。
不安を引き出してそれをほぐして行かねばならない。
番組を見ていて思ったことは
現代の宗教ビジネスの括りの中では難しいと感じた。
ある老人の方は戒名にこだわっていた。
うちの父もそうであるが、戒名がないとあの世に行けないと思っている。
そう思っている方にはつけた方がいいと思う。
だが、それはおかしい。
戒名のない時代の人はあの世に行けなかったのか?
こんな事は小学生でもわかる。
全ては宗教ビジネスが創り上げた幻想である。
戒名などより大切な事がある。
その事実に気づいていない。
だが、ひとつだけいいことを言っていた。
「死が不幸であるというのなら、全ての人が不幸になってしまう。」
この言葉は真実である。
だが、そこで止まっているのだ。
ケアする側もされる側も「死」を畏れている。
それはお互いの傷をなめ合っているのと同じだ。
これは非常に見ていて辛かった。
死が不幸でないなら何なのか?
死は喜びにはならないのか?
仏の教えを学んで来たものが「死」を分からないとは言ってはいけない。
これでは完全に「死」を道具にしているだけになってしまう。
ここが今の宗教の限界なのかと思ってしまった。
いつも死と隣り合わせで生きてきた過去の人物
織田信長や坂本龍馬、宮本武蔵…
彼らは死を畏れていたのであろうか?
畏れていた事実には変わらないと思う。
だが、私自身はこう思うのである。
死が身近にあった時代、人々は死を受け入れていた。
死が遠のいた今、人々は死を拒んでいる。
死を受け入れれば「人生を精一杯生きよう」と思う。
死を拒めば「いつまでも生きていたい」と思う。
その覚悟が違うのだと感じるのである。
精一杯生きるとき「これで良かった」と思うに違いない。
生きていたいと願えば「まだ、死にたくない」と思うだろう。
死の瞬間、生まれるエネルギーは果てしなく違う。
自分の人生を生きている。
何があっても、何が起こっても2度目はない。
生まれ変わってもそれは違う人生。
楽しく生きた方がいいに決まっている。
何が訪れるかわくわくして死の瞬間を待ちたいとは思わないだろうか?