嵐は動けずにいた。
陽が高くなっても瀧の側は涼しかった。
毛皮を着ている嵐には絶好の避暑地と言えた。
あれからすでに一週間が過ぎていた。
「腹減ったなぁ~」
嵐は真魚に会いたいと願う気持ちとは裏腹に、どうして良いのかわからなかった。
ただ、前鬼がここしかないと言うからには、この場を動く理由がなかった。
それに棒を置いたままである。
『必ず真魚はここに戻ってくる…』
確信はあったが、何もせず真魚の帰りを待つ日々が続いた。
前鬼と後鬼は他にも用事があるらしく、出かけたきり帰っては来なかった。
「真魚の奴は何をしているのだ」
「まさかあの高飛車な丹生津姫と懇ろになるとは思えんしな・・・」
そう思ってはみたが嵐に一抹の不安がよぎった。
「ひょっとして真魚の奴、丹生津姫まで抱き込もうとしておるのではなかろうか」
前鬼と後鬼を使いに出した事実。
「何かを企んでおることは間違いない」
「あの丹生津姫が落ちるはずがないしな・・・」
その考えをもみ消すと再び眠りに就こうとした時・・・。
嵐の目の前に信じられない光景が現れた。
「あぁ・・・」
嵐は言葉が出なかった。

「傷も良くなったしそろそろ出かけんとな」
真魚は丹生津姫に言った。
「お前に聞いておきたいことがある」
姫は真魚に向き合った。
「なぜこの地に来たかと言うことだ」
姫は真魚に尋ねた。
「お前のような者が、用もなしに動くとは思えん」
「そうだな」
真魚は訳を話し始めた。
「あるものを捜している」
真魚はあるものとだけ言った。
「そう言うことか・・・」
姫はわかっていた。
「丹砂だな」
「一つはそうだ」
真魚は答える。
「一つ?」
「まだあるのか?」
姫は不意を突かれた様に言った。
「場所だ」
真魚はさらりという。
「場所?」
「お前は何をする気だ」
姫は真魚の考えを図りかねていた。
「俺の居場所を作るだけだ」
真魚はそう答える。
「居場所?そうか!なるほどな・・・」
姫にもだんだんと見えてきたらしい。
「お前という奴は、何を考えてるのだか・・・」
丹生津姫はしばらく真魚を見つめていた。
「これを持って行きなさい」
丹生津姫は胸にかけられていた宝玉を真魚に渡した。
「これは・・・」
「あの棒には必要なものです」
丹生津姫は真魚の疑問に答えた。
「やはり、このときは訪れるのですね」
丹生津姫は真魚の胸にもたれ、残念そうに言った。
「世話になった」
真魚は姫を抱きしめた。
「このまま時が止まればいい・・・」
姫は心の底からそう願った。
だが、同時に真魚の心も感じていた。
「お前は行かねばならぬな」
真魚が成さねばならぬ事、それはわかっていた。
だが、離れたくはないという気持ちがそれを許さなかった。
二つの気持ちの間で心が揺れた。

「人はこの様にして心で力を生むのだな」
真魚の腕の中で丹生津姫はつぶやいた。
「そうだ」
姫を抱きしめたまま真魚が答えた。
「神である私はそのようなものは必要ない」
「だが、今は違う」
姫はその瞳に涙をためた。
「真魚の前では…」
姫は顔を上げ真魚を見た。
その瞳から涙が溢れた。
真魚はその涙を指ですくった。
「温かい」
姫は必死に堪えていた。
笑顔を必死に作ろうとした。
そうしようと思えば思うほど涙が溢れた。
「哀しいのなら泣けばいい」
真魚は姫にそう言った。
姫は首を横に振った。
「笑いたい・・・」
「でも・・・」
姫は真魚の胸に顔を埋めた。
「出来ないのだ・・・」
真魚は姫を抱きしめた。
どれだけの時間が過ぎたであろう。
穏やかな心が姫を包みこんだ。
丹生津姫は真魚の胸から顔を離し真魚に言った。
「そろそろ行かねばな」
「ああ」
真魚はそれだけ答えた。
真魚の言葉と同時に二人の躰が輝き始めた。
だんだんと光の粒が増えていく。
一際輝いたかと思うと二人の躰は消えていた。
嵐は目をぱちくりさせていた。
あまりの出来事に顎が外れた様に開いた口が塞がらなかった。
真魚がいた。
瀧の前に。
いつの間に現れたのか、それすらもわからなかった。
側に丹生津姫が立っていた。
二人は向き合ってお互いの手を握り合っていた。
そうしていたかと思うと急に抱き合った。
「離れとうはない・・・」
丹生津姫が真魚に言った。
「いつでも会えるではないか」
真魚は姫の髪を撫でて言った。
神である。
会おうと思えばいつでも会える。
「磁場、霊力、触媒、なかなか条件は厳しいぞ」
姫は言った。
「実体でなくても良い」
「俺を見ていてくれ」
真魚は姫の頬を撫でた。
「それだけでいい」
真魚は姫と唇を合わせた。
しばらく二人は動かなかった。
何か心で言葉を交わしている様であった。
「私は許さない」
「私を奪ったのだぞ」
姫は言った。
「どうすれば許してもらえる?」
真魚は微笑んで聞いた。
「そうだな・・・」
丹生津姫は目を伏せた。
こみ上げる思いに絶えきれず、真魚の胸に頬を付けた。
「お前がここにいる…」
丹生津姫はそうつぶやいた。
「当たり前だ」
真魚が言った。
「それだけで良い・・・それだけで・・・」
その言葉に真魚は揺れた。
真魚の心に愛しさと切なさが交錯する。
真魚は丹生津姫を抱きしめた。
真魚の腕の中で姫は顔を上げた。
「契りだ」
姫はそう言うと真魚に唇を重ねた。

姫の目から涙がこぼれた。
「真魚・・・」
姫が真魚の心に話しかけてきた。
姫の涙は止まらなかった。
真魚は姫を抱きしめた。
「私はお前が・・・」
そう言って丹生津姫は真魚の唇に歯を立てた。
一度目は優しく・・・。
姫は真魚を見つめた。
その瞳からは涙が溢れている。
「真魚・・・お前が」
「愛おしい・・・」
二度目は本当に咬んだ。
真魚の唇から血が流れた。
その血の穢れが姫の躰を消し去っていく。
姫は目に涙を浮かべながら微笑んでいた。
それは真魚にとってはかけがえのない微笑みであった。
ゆっくりと消えていく躰を真魚は精一杯抱きしめた。
やがて姫の躰は消滅した。
躰に残る温もりが姫の全てであった。
真魚はその温もりを抱きしめていた。
嵐はしばらく真魚に声をかけることはしなかった。
「真魚の奴、とうとう丹生津姫まで巻き込みおったか・・・」
初めはそう思っていた。
姫が去った後も真魚は動かなかった。
その姿を見て嵐は気がついた。
「真魚・・・」
嵐はどうするべきかと悩んだ。
「声をかけるべきか・・・」
だが、その前に真魚が嵐の存在に気がついた。
嵐は複雑な気持ちであった。
「ぼ、棒を忘れておるぞ」
嵐の口から最初に出た言葉はそれであった。
もっと伝えたいこともあった。
会いたかった。
寂しかった。
しかし・・・。
思わず出た言葉に嵐はあきれた。
「久しぶりに会ったのにそれか?」
逆に真魚に突っ込まれた。
「お主があの姫に連れて行かれるところを見たのだ」
嵐は必死に言い訳をしたが、言い訳になっていなかった。
「この通り大丈夫だ」
真魚のその言葉に嵐は駆けだした。
主人に駆け寄る子犬そのものだ。
「心配はしてないぞ!」
嵐は憎まれ口をわざと言った。
「おみやげをもらってきた」
真魚が嵐の頭を撫でた。
「お、おみやげ!な、何だ食い物か!」
嵐のその言葉が言い終わらないうちに真魚は瓢箪の蓋を取った。
「うひょ~!」
瓢箪の口から今まで見たことのないようなごちそうが出てきた。
「こ、これを全部食べてもいいのか?」
嵐がうれしそうに聞いた。
「まて~!」
聞き覚えのある二つの声がそれを制した。
「分け合うことが幸せの始まりじゃぞ!」
後鬼が嵐をたしなめた。
「そんなのは知らん!一人で食べるから幸せなのだ」
嵐はそう言って食べようとした。
「食い物の恨みは恐ろしいぞ!」
前鬼がそう言って割り込んだ。
真魚は笑っていた。
「お主らそんなことより仕事は終わったのか?」
嵐が聞く。
「終わったからここにいるのだ!」
後鬼はそう言って一つ何かを食べた。
「わ~」
嵐が叫んだ。
「それは俺が食べようと思っていたやつだ!」
「速い者勝ち~!」
後鬼が嵐の言葉を制した。
「くそ~こうなったら食べてやる!!」
「全部食ったる~~~~~~~~~~~~!!!!!」
嵐の叫びが辺りにこだました。

森の中に闇があった。
その中から幾つかの目が除いていた。
「丹生津姫め!」
「余計なことをしやがって・・・」
「あれは俺の手柄であったものを・・・」
「生きておったか佐伯真魚・・・」
「しぶとい奴め・・・」
「だが、あいつは面白い・・・」
「ああ、面白い・・・」
闇はしばらく存在したが、いつの間にか消え去っていた。
第三話 -完-