日本語は通じているのに、なぜか疲れる
・・・・ランガージュの檻が暴く「通じているのに通じない」違和感の正体
はじめに:最近、こんな感覚はありませんか?
最近、ふとした場面で、こんなことを感じることがあります。
デパートでも、レストランでも、コンビニでも、ホテルでも、空港でも❣️
日本語は確かに通じている。
用件もきちんと済んでいる。
相手も丁寧に対応してくれている。
それなのに・・・・・
なぜか、少しだけしっくりこない。
最初は、私の気にしすぎかな、と思っていました。
でも、多言語の現場で仕事を重ねるうちに、だんだん確信に変わっていきました。
これは単なる「日本語力」の問題ではない。
もっと深いところで、私たちは今、言葉の土台そのものがズレ始めているのではないか。
今日は、その違和感の正体を、できるだけやさしく、順番にほどいてみたいと思います。
①ランガージュの檻
すなわち、母語がつくる“見えない枠”
私がこの『ランガージュの檻』という言葉に出会ったのは
岡崎直子さんのこちらから〜
https://note.com/naokookazaki/n/ne4ba97dbd44f
ここでまず登場するのが、「ランガージュの檻」という考え方です。
この表現自体は、言語学者ソシュールが直接使った言葉ではありません。
ソシュールは、言語を
• langage(言語能力)
• langue(社会的言語体系)
• parole(個別の発話)
という三層構造で捉え、
人間は既存の言語体系(ラング)を通してしか世界を切り分けられない
という非常に重要な視点を提示しました。
すなわち、私たちの「ものの見え方」そのものが、母語によって無意識に方向づけられている、ということです。
この含意を、思想家の内田樹が比喩的に強調した表現が、
「ランガージュの檻」
と理解すると、とても分かりやすくなります。
つまり私たちは、自分の母語という見えない枠の中からしか、世界を見ることができない。
この前提に立つと、異なる言語背景を持つ人同士の会話に、微細なズレが生まれるのも、むしろ自然なことのように思えてきます。
②:内田樹の視点
すなわち、言葉は常に「他者」に向かっている
ここで大きなヒントを与えてくれるのが、内田樹の著書『街場の文体論』です。
この本の中で内田は、文章を書くという行為を、
自己表現ではなく、想定された他者に向けた行為
として捉え直しています。
そして有名な指摘があります。
書けないのは、才能不足ではなく、他者の不在である。
すなわち、言葉がうまく立ち上がらないとき、多くの場合不足しているのは語彙力ではなく、
「誰に向かって話しているのか」という他者像
なのではないか、という洞察です。
この視点を会話に引き寄せると、最近多くの人が感じているあの違和感も、かなり説明がついてきます。
③:高コンテクスト日本語
すなわち、“言わない部分”を相手に委ねる文化
日本語はよく「高コンテクスト言語」と言われます。
すなわちこれは、
言葉にしない情報を、相手が察する前提で成り立つ言語
という意味です。
例えば日本語では、
• 主語を省略する
• はっきり断らない
• 空気を読むことを期待する
こうした運用が、とても自然に行われます。
日本語ネイティブ同士であれば、この仕組みは驚くほど滑らかに働きます。
しかし今、日本語を使う人の背景は、急速に多様化しています。
ここで、静かな摩擦が生まれ始めます。
違和感の正体:三重構造で何が起きているのか
今回の「通じているのにしっくりこない」という感覚は、少なくとも三段階でズレが起きていると考えると、非常に理解しやすくなります。
【第1層】記号レベル
すなわち:言葉そのものは通じている
• 文法は合っている
• 単語も理解できる
• 用件も完了する
ここだけを見ると、会話は成立しています。
【第2層】文脈レベル
すなわち:空気の同期が少し浅い
日本語ネイティブ同士の会話では、
• 間(ま)
• 含み
• 配慮の方向
• 温度感
といった非明示情報が大量に共有されています。
背景が異なる相手との会話では、この同期がわずかに浅くなる。
ここで身体感覚として、
「通じているけど、なんか違う」
という最初のモヤモヤが生まれます。
【第3層】観測座標のズレ
すなわち:世界の切り取り方そのものが違う
ここが最も深い層です。
ヌーソロジー的に言えば、人はそれぞれ、
固有の座標軸から世界を観測している
と考えます。
すなわち、同じ日本語を使っていても、
• 何を重要と感じるか
• どこまで言語化するか
• どこに配慮を向けるか
この「世界の見え方」自体が違うことがある。
この時に生まれるのが、
言葉は通じているのに、深いところで噛み合わない
という、あの独特の違和感です。
最後に : 違和感は、感度が働いているサイン
もし最近、
日本語は通じているのに、妙に疲れる
会話は成立したのに、どこか引っかかる
そう感じることがあるなら・・・・・
それは、あなたの感覚が過敏なのではなく、
意味空間のズレを、ちゃんと検知できている
ということかもしれません。
ランガージュの檻は、思っている以上に深いところで、私たちの会話を形づくっています。
そして今、その檻のきしみが、日常のあちこちで、静かに聞こえ始めている。
私は、そんな時代の入口に、私たちはもう立っているのではないか・・・・・
そんなふうに感じているのです。
最後までお読み下さりありがとうございます。
カメリア
