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辻が花(11)
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前回まではこちらから読めます。(※別ウィンドウが起動します)
第一話、第二話、第三話、第四話、第五話、第六話、第七話、第八話、第九話、第十話
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カウンターからは老夫婦の姿は消え、先ほどのバーテンダーが一人でワイングラスを磨いていた。
沙弓の頭の中で旋回していた渦はゆっくりと速度を弱めつつあったが、美しいカクテルの写真が載ったメニューを開いても、視線だけが上滑りしていく。
どれくらい時間が経っただろう。
「何かお好みのものはありますか?」
不意に話しかけられドキリとして前を向くと、静かにこちらを見ているバーテンダーの姿があった。
私が好きな味……何だろう。
さっき頼んだギムレットだってマティーニだって、最初は弘幸や昔のボーイフレンド達から教えられた味だ。
口当たりが良く美味しいし、ネーミングも気に入っていたので毎回頼んでいたけれど、改めて聞かれると答えに窮してしまう。
「何かおすすめはありますか?」
思い切って聞いた沙弓の顔をバーテンダーは一瞬覗き込み、そして少し目を細めた。
「フルーティーな味はお好きですか?」
「ええ」
「桃の香りなどはどうですか?」
「好きです」
彼は小さく頷くと、シェイカーを振り始めた。
出されたのは、沙弓が手に握りしめていた小さなハンカチと同じ色をした、薄桃色のショートカクテルだった。
氷で一度冷やされたグラスには小花が2つ、影のようにぴったりと張り付いている。
口もとに持って行くと、ふんわりとやさしく甘い香りが立ち昇り、冷たくトロリとした、甘酸っぱい液体が、コロコロと食道を滑り落ちる。
「美味しい……。これは何というカクテルですか?」
沙弓が思わずバーテンダーを見上げると、彼は静かに話し始めた。
このカクテルは幻の花とも言われる染めの着物の名前をヒントにした彼のオリジナルであるということ。グラスの小花はその花をイメージしているということ。
「幻の花……」
淡く優しげな光を放つカクテルが、バーの柔らかな照明の下でぼうっと浮かび上がっている。
沙弓はそれをじっと眺めながら、もしかして自分は、結婚という名の幻を追いかけていたのかもしれないとぼんやりと思った。
ドレスも、カサブランカも、披露宴のテーブルを彩る予定だったトルコききょうの淡い紫も。
もっともっと大切な何かを、自分は見落としてしまっていたのかもしれない。
「このカクテルがコンペで入賞したのは、ちょうど今くらいの季節でした。梅の花が咲いていました」
沙弓はハッとして顔を上げた。
「こちらまだまだ銀世界ですが、もう向こうには確実に、春がやってきていますよ」
彼はにっこりと微笑みながら、真っ直ぐな瞳で沙弓を見ながら言った。
ガラスのドアを開けると、雪はもうすっかりやんで、道いっぱいに並べられたキャンドルの光も消えていた。
キーンと冷えた青白い空に、三日月が冴え冴えと銀色の光を放っていた。
月あかりの中、沙弓は不思議と温かい気持ちに包まれて家路についた。
帰ったら、まず優実に電話をしよう。
そして、父と母にも、きちんとすべてを伝えよう。
自分の意志で彼との別れを選択する予定だということを。
―― 完 ――
辻が花(11)
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カウンターからは老夫婦の姿は消え、先ほどのバーテンダーが一人でワイングラスを磨いていた。
沙弓の頭の中で旋回していた渦はゆっくりと速度を弱めつつあったが、美しいカクテルの写真が載ったメニューを開いても、視線だけが上滑りしていく。
どれくらい時間が経っただろう。
「何かお好みのものはありますか?」
不意に話しかけられドキリとして前を向くと、静かにこちらを見ているバーテンダーの姿があった。
私が好きな味……何だろう。
さっき頼んだギムレットだってマティーニだって、最初は弘幸や昔のボーイフレンド達から教えられた味だ。
口当たりが良く美味しいし、ネーミングも気に入っていたので毎回頼んでいたけれど、改めて聞かれると答えに窮してしまう。
「何かおすすめはありますか?」
思い切って聞いた沙弓の顔をバーテンダーは一瞬覗き込み、そして少し目を細めた。
「フルーティーな味はお好きですか?」
「ええ」
「桃の香りなどはどうですか?」
「好きです」
彼は小さく頷くと、シェイカーを振り始めた。
出されたのは、沙弓が手に握りしめていた小さなハンカチと同じ色をした、薄桃色のショートカクテルだった。
氷で一度冷やされたグラスには小花が2つ、影のようにぴったりと張り付いている。
口もとに持って行くと、ふんわりとやさしく甘い香りが立ち昇り、冷たくトロリとした、甘酸っぱい液体が、コロコロと食道を滑り落ちる。
「美味しい……。これは何というカクテルですか?」
沙弓が思わずバーテンダーを見上げると、彼は静かに話し始めた。
このカクテルは幻の花とも言われる染めの着物の名前をヒントにした彼のオリジナルであるということ。グラスの小花はその花をイメージしているということ。
「幻の花……」
淡く優しげな光を放つカクテルが、バーの柔らかな照明の下でぼうっと浮かび上がっている。
沙弓はそれをじっと眺めながら、もしかして自分は、結婚という名の幻を追いかけていたのかもしれないとぼんやりと思った。
ドレスも、カサブランカも、披露宴のテーブルを彩る予定だったトルコききょうの淡い紫も。
もっともっと大切な何かを、自分は見落としてしまっていたのかもしれない。
「このカクテルがコンペで入賞したのは、ちょうど今くらいの季節でした。梅の花が咲いていました」
沙弓はハッとして顔を上げた。
「こちらまだまだ銀世界ですが、もう向こうには確実に、春がやってきていますよ」
彼はにっこりと微笑みながら、真っ直ぐな瞳で沙弓を見ながら言った。
ガラスのドアを開けると、雪はもうすっかりやんで、道いっぱいに並べられたキャンドルの光も消えていた。
キーンと冷えた青白い空に、三日月が冴え冴えと銀色の光を放っていた。
月あかりの中、沙弓は不思議と温かい気持ちに包まれて家路についた。
帰ったら、まず優実に電話をしよう。
そして、父と母にも、きちんとすべてを伝えよう。
自分の意志で彼との別れを選択する予定だということを。
―― 完 ――