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「じゃあ……マティーニを。うんとドライなやつ」

沙弓はゆっくりと答えた。
バーテンダーが、ほんの少し驚きを含んだ瞳で沙弓を見返したが、すぐに瞳は伏せられた。

「承知いたしました」

ジンの香りはいつも沙弓の心を落ち着かせてくれる。ちょっぴり華やかで、そして切ない香り。マティーニのアルコール度数が決して低くないことくらい、カクテルについてそんなに詳しくはない沙弓だって知っている。けれど、今日は何もかもを忘れてしまうくらい飲みたいのだ。それに、このカクテルは、瑞穂がよく頼んでいたカクテルだった。

仕事帰り、カッチリしたジャケットを脱いでスツールに腰掛ける瑞穂。淡い色のブラウスの一番上のボタンははずされて、まとめている髪も、解かれていた。マティーニを頼む彼女の背に流れる艶やかな髪を視界の端に捕らえるたび、沙弓はなんだか大切な秘密を覗き見してしまったような、照れくさいような誇らしいような気分になったものだ。そして、背筋をぴんと伸ばしたまま、ショートグラスを唇にあてる瑞穂の姿は、女の沙弓から見ても惚れ惚れするような格好の良さだった。

「以前にも、いらっしゃったことがありますよね」
ふいにバーテンダーが言った。
「ええ……。あっちの奥のソファーに」

「ああ、そうでしたか。お友達とご一緒だったように記憶しています」
「ああ、そうです。よく覚えているんですね」

沙弓ははっとした。
「あの、一緒にいた彼女、よくここに来ていましたか?」
「ええ。時々いらっしゃっていましたよ」
「あの……1人で……?」
バーテンダーはチラリと沙弓を見て、答えた。
「ええ、お1人の時もありましたし、お連れ様がいらっしゃるときも。ドライマティーニです」

目の前にグラスが置かれた。
透明なグラスの底に、オリーブの実が揺れている。

その時瑞穂の隣にいたのは誰だったのだろう。もしかして弘幸かもしれない。
そうだ。そういえば、いつかの会社帰りの夕食の後、このバーに来たがった沙弓を止めたのは弘幸だった。いつも店の選択に反対したことのない弘幸が、あまりにも強い様子で拒否したので、印象が強かったのだ。

グラスを持ち、トロリとした液体を流し込む。ジンとベルモットの香りがふんわりと口の中を満たし、冷たくて熱いものが体の中心を流れていく。

瑞穂が憎かった。

「夫はいらない」と言っていたはずなのに、しゃあしゃあと赤ん坊連れで弘幸の前に現れ、沙弓の目の前に約束されていた未来を奪い取った瑞穂が憎かった。
婚約者がいるのに、瑞穂とそういう関係になった弘幸だって許せない。けれど、その何百倍も、瑞穂が憎かった。


……つづく