つまり相手を喜ばそうとするのだけれども、相手のことを考えているわけではないということです。自分が相手から尊敬され、感謝されることを求めているだけなのです。
裏を返せば、不安な気持ちは、誰かに助けを求めるために発動します。
しかし常に不安な人は、心配せずにいることのできる居場所がありません。
だから常に人から必要とされることを望むのです。
テレンバッハは、この状態を「自己中心的な対人配慮」と述べています。
自己執着的対人配慮です。
つまり相手を喜ばそうとするのだけれども、相手のことを考えているわけではないということです。
自分が相手から尊敬され、感謝されることを求めているだけなのです。
自分が生きている意味を獲得しかねているから、悩むことで復讐している人も存在します。
「あなたのため」と言いながら、相手を縛る。
相手を縛ることで、その人は自分の退行欲求を満足させているのです。
自分の人生を活性化するためには、人の人生を取り込むのが最も容易なのです。
よく言われる台詞は、「あなたさえ幸せなら私はどうなってもいいの」です。
あるいは 「人間としてあなたを許せない」 などです。
もともと無意味感を感じるしかないような人間関係の中にいながら意味を感じようとします。
だから自分に服従を要求する人から離れられないことがあります。
うつ病者を生み出す親子関係もこのカテゴリーに入ります。
~つづく~
相互性のない人間関係
人は自分の人生が行き詰まると、自分の人生を活性化するために「相手を巻き込む」ことを始めます。
自分が生き延びるためなら何でもする生き物です。
「テレフォン人生相談」の数ある相談の中でも、不幸な人になる典型的なタイプの一つと言えます。
相談者の中に、子育て支援と称して一人で勝手に周りの人に迷惑をかけている男性がいました。
彼は、「今の日本の少子化の原因は、若者が異性との付き合い方がわからないからだ」と言って、若者を集めてパーティを開こうとしました。
皆からうるさがられていることに気づいていません。
また、「子育てに悩んでいる母親を助ける」「女性が子育て支援を必要としている」と主張し、子育てのパンフレットを一人で勝手に作って、子育て中の女性の家に押しかけて、「子育てはこうすべきだ」と教えようとして、当然のことながら、うるさがられています。
しかし、その男性は子供の相談を専門とする人ではありません。
特別の知識も経験もあるわけではないのです。
人を助けるためには、「人間関係の距離感がわかる」ということが最も大切です。
それは常識です。
この男性には、その人間関係の距離感がない。
相手が自分に何を望んでいるかが理解できないのです。
確かにテレビを見ていると、少子高齢化の問題とともに子育て支援ということが議論されます。
それは正しいのでしょうけれども、肝心のことが無視されています。
まるで運転できない人が運転席に座り、車のエンジンはこう改良したらいいとか、ボディはこうした方がスペースは広がるとか議論しているようなものです。
言っていることが全て実現しても車は動きません。
そういう人は、実は深刻な劣等感を抱いているにもかかわらず、「自分についての耐えがたい感情」を受け入れていないのです。
そこでとにかく人を「救う」ことに夢中になります。
相手が助けてもらいたいと思っているのと考えることはまったくありません。
自分が「この人を助けたい」と思い、相手は「この人に助けてもらいたい」と思う。
それが相互性ですが、相互性のない人は、美徳の陰に、自分の居場所作りをしているだけなのです。
そして自分は、助けを求められるほど誰からも信頼されていないという自己イメージを無意識下に持っています。
そしてその自分のイメージを抑圧しています。
抑圧している感情は、「自分には居場所がない」ということです。
「実際の自分」を受け入れれば、「本当の自分」に気がつくことができます。
それを認めれば居場所はできます。
しかし残念ながらそういう人は、「実際の自分」の位置を「認められない」のです。
望ましい人間関係には相互性が必要です。
それは、助ける人が、相手を助けてあげたいと思い、助けられる人が「この人に助けてほしい」という欲求のことです。
その相互性があってこそ、お互いの心が触れ合う人間関係が成立します。
例えば、この子供に介護されたい、この親を介護したい、それが相互性です。
「実際の自分」の位置を「認められない」人は、心の底の、そのまた底で自分に絶望しており、そしてその絶望感を抑圧している状態にいます。
そのように自分自身を救えない人が他人を巻き込むことで自分を救おうとするのです。
つまり、依存心の強い人こそ、人を助けたがるのです。
相手を助けるというよりも、人から感謝されることを必要としていて、自分の強度の依存心を認めていません。
抑圧された依存心や劣等感は、相手を助ける、支援するという美徳に変装して表れます。
憎しみが愛情の仮面をかぶり 「あなたのためを思えばこそ」と言いながら、グチグチといつまでも相手を責める人がこのタイプです。
自分で自我価値の確認ができないので、他人から感謝されて初めて自我の確認ができるというわけです。
子供の研究家として多くの業績を残したボールビーは「無意識の安心感(Unconscious
reassurance)」と述べています。
自分が困ったときに、誰かが助けてくれるという安心感がある人は、この無意識の安心感がある人です。
裏を返せば、不安な気持ちは、誰かに助けを求めるために発動します。
しかし常に不安な人は、心配せずにいることのできる居場所がありません。
だから常に人から必要とされることを望むのです。
テレンバッハは、この状態を「自己中心的な対人配慮」と述べています。
自己執着的対人配慮です。
つまり相手を喜ばそうとするのだけれども、相手のことを考えているわけではないということです。
自分が相手から尊敬され、感謝されることを求めているだけなのです。
自分が生きている意味を獲得しかねているから、悩むことで復讐している人も存在します。
もともと無意味感を感じるしかないような人間関係の中にいながら意味を感じようとします。
だから自分に服従を要求する人から離れられないことがあります。
うつ病者を生み出す親子関係もこのカテゴリーに入ります。
また、「あなたさえ幸せになってくれれば私はそれでいいの」と言って、他人に絡むしかない人も同じです。
他人を巻き込むことで、自分の無意味感を解消しようとする人がたくさん存在し
ます。
それらの努力は、結果として全て報われない努力であり、服従する方も、最後はうつ病になったり自殺したりする場合が否めません。
そうした人間関係では、憎しみが愛情の仮面をかぶって登場します。
「あなたのためを思えばこそ」と言いながら、いつまでもしつこく相手を責めます。
そういう人も意識の領域では、「相手のため」と思っていろいろとするが、相手にとって迷惑なことばかりです。
人間関係はいよいよ悪くなっていきます。
そして最後は「こんなにしてあげたのに」と恨むことになります。
もしも寂しいのであれば、まず「本当に自分の好きなものを見つけよう」とアドバイスをしたいと思います。
もしもそれを見つけることができれば、「実存的欲求不満」にはならずにすむでしょう。
見つけられない人は、前述のように、愛や正義の名のもとに他人に絡み、嫉妬、妬みの心理を激しく持ちます。
不安な人は寂しいから因縁をつけて、関わることまで始めます。
自分が寂しいから、嫁いだ娘の家族に遊びに来てもらいたいと執着している母親がいました。
その母親は、娘夫婦が不和だと勝手に決め込んでしまったのです。
そしてさらには、孫が可哀想だからと、娘に絡むことを合理化していました。
「孫のことが心配で仕方ない」と口にしますが、実は嘘なのです。
意識の領域では「孫のことが心配で仕方ない」であるが、無意識の領域では「私は今、寂しいから娘家族に遊びに来てもらいたい」と言っています。
この人は単に、孫が遊びに来てくれない高齢者なのです。
自分自身になれない人の愛や誠意は全て偽りです。
自分が自分自身になれない人は、虚無感から他人を巻き込んで自分の人生を活性化しようとします。
人は、自分の無力感から、他人を支配しようとして愛と言う名の仮面をかぶってサディストになることがあります。
しかも恐ろしいことは、自分がサディストであることに気がついていないし、気がついても認めないことです。
デヴィッド・シーベリーによれば、全ての悩みの根源は、自分が自分でなくなったことで現れると言います。 その通りです。
自分に心の支えがないから人に絡み、自己の存在証明は他者の評価に頼ります。
自分の人生の重心が他者になっていき、やがて自分が自分を断念している状態になります。
そんな状態で「報われない努力を」することで、人は何を失うのでしょう?
「失うのは、成長への能力そのものであり、かれ自身の肯定的感情を失うのです。」(注1)
カレン・ホルナイが「神経症的非利己主義」という言葉を使っていますが、これは巧妙に擬装された攻撃性です。
そして同時に巧妙に擬装された退行欲求でもあります。
「あなたのため」と言いながら、相手を縛る。
相手を縛ることで、その人は自分の退行欲求を満足させているのです。
自分の人生を活性化するためには、人の人生を取り込むのが最も容易なのです。
よく言われる台詞は、「あなたさえ幸せなら私はどうなってもいいの」です。
あるいは 「人間としてあなたを許せない」 などです。
子供が親の関心を引こうと親の嫌なことをする。
大人になっても同じです。
相手の関心を引こうと相手の嫌なことをするのです。
そういう人たちは人間関係の作り方、愛の求め方がわからないのです。
人間の世界も心理的には弱肉強食の側面があります。
キリンはライオンに食べられてしまいます。
他人を巻き込んで、自分の人生を活性化する人がいれば、巻き込まれて自分の人生を失う人もいます。
母親らしさを強調して子供を束縛し、子供を虐待する母親。
こうした母親の行動は「強迫性的虐待」で、子供を虐待しないではいられない状態に陥っています。
ボールビーの言う「親子の役割逆転」といわれる現象があります。
本来親が子供の甘えの欲求を満たしてあげなければいけないのに、それが逆転している現象のことです。
子供を食べることで、親は自分が生き延びるのです。
まさに弱肉強食です。
いじめられる人といじめる人、両方とも人生が行き詰まっていると言えます。
弱い人の共食いなのです。
このように、人間だけがひねくれます。
突っ張り、斜に構え、陰で意地悪をし、愛の仮面をかぶったサディストになり、 「あなたさえ幸せになれば」と偽善者になるのです。
支配欲が愛に変装しています。
意識の領域ではこれは愛だと錯覚しています。
親が心理的に問題を抱えており、それが深刻な心の葛藤であればあるほど深く子供を巻き込むのです。
そういう親は心理的に幼稚で、自立できていません。
しかし、自分の子供を巻き込んでいれば、他の誰にも手を出せないことも知っています。
自分の子供や他人を巻き込み、心の葛藤を解決しようとしている限り、人生に幅が出ません。
自己実現している人とは、人生のあり方が大きく異なります。
自分自身の潜在的能力を使って生きる人だけが、生産性のある人生を送ることができます。
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